「黄昏の書房の神話書」

異次元

夜の帳が下り、静かな町は月明かりに照らされて朧げな影絵に変わっていた。人々は家の中で安寧を貪り、穏やかな夜の眠りを楽しんでいる。しかし、町外れにある古びた書店「黄昏の書房」には、未だ黄色い灯火が揺れていた。

その書店は町でも誰も訪れないような場所にひっそりと佇んでおり、店主の老人以外に客が訪れることは滅多にない。しかし、今夜は違った。大学で神話学を研究する青年、喬太が扉を押し開けて中に入ったのだ。彼の目的は、ここにしかないと噂される古代の神話書を手に入れること。

「いらっしゃい。」店主は皺だらけの顔に奇妙な笑みを浮かべ、カウンターの奥から現れた。「お探しの本は裏の棚にあるかもしれません。」

店内は古い書物の匂いと共に、何か目に見えぬ圧迫感が漂っていた。喬太は無言のまま棚を探し、やがて埃にまみれた一冊の黒革の書を見つけた。それは異国の文字で綴られており、見るだけで瞳が捕らわれるような不思議な魅力を放っていた。

「これですか?」喬太が尋ねると、店主はゆっくりと頷いた。「それは古き時代から伝わる禁断の書です。開くことで何かが目覚めるとされていますが、それでも読む覚悟がありますか?」

喬太は頷いた。自身の好奇心と学識を信じて、この本が自分の研究に新たな光をもたらすと確信していた。彼は店主に代金を支払うと、本を大切に持ち帰った。

その夜、喬太は誰もいない研究室に籠もり、その書を開いた。冷たい風が窓枠を叩き、一瞬、蜃気楼のように室内が揺らいだかのように感じた。喬太は文字を目で追いながら、次第にその内容に引きずり込まれていった。

本の内容は、神に似た存在たちが異なる次元を支配する様を描いていた。彼らの名前は発音することすら許されないようで、文字の羅列はまるで生き物のように蠢いている錯覚を覚えた。書かれている物語は現実世界の常識や法則を超えた、理解不能な事柄ばかりだった。

集中しすぎたためか、喬太はふと顔を上げた。その視線の先には、通常ではありえない奇妙な光景が広がっていた。研究室の壁がどこかに消え去り、夜空に似た無限の空間がそこに広がっているではないか。星のような光が瞬き、彼の視線を奥へと引き寄せていた。

「これは、何なんだ…?」

呟いた瞬間、彼はその次元の深淵へと意識を奪われた。彼の周囲に広がるのは無限の闇と、その闇を裂くように現れる異形の者たちだった。形も定かでなく、存在自体が概念のように捉えどころのないもの。

彼らの視線を感じた瞬間、喬太は魂が押し潰されるような恐怖に襲われた。何かを口にしないと意識を保てない気がして無我夢中で叫んだが、その声は次元の彼方に吸い込まれることしかなかった。

異次元の存在たちは、喬太の理解を全く超えた威圧感をもって彼を見つめ続けた。その視線は、彼の身体だけではなく、心の奥底にまで届くようで、彼という存在そのものが無意味に思えてくる。彼らは言葉を発することなく、ただ静かに彼を包み込む。

この時間がどれほど続いたのか喬太には見当もつかなかった。ただ、感覚が蝕まれ、精神が擦り切れていくのを待つしかなかった。その意識が薄れかけたとき、低い震える声が頭の中に流れ込んできた。「おまえが覗いた穴は、おまえを現世から切り離す。戻れると考えるな。」

恐怖と絶望の中、喬太はその言葉の意味を理解した。彼が開いてしまったのは、人間の限界を超える次元の扉だったのだ。自分の意識一つで、この世界と彼方とを結ぶ突破口を作ってしまった。それはもう、彼の意思では閉じられない。

最後の理性を保ちながら喬太は、自分を包み込む闇と恐怖が一つに融けていく感触を味わった。現実が徐々に崩れ、自身という存在すらも薄れていくその途中で、彼はただ一言「戻れはしない」とぼやいて、深淵に吸い込まれていった。

そしてその瞬間、町の片隅にある書店「黄昏の書房」は忽然と消え去った。店があったはずの場所にはただ空き地が広がるのみで、喬太の足跡も、あの夜の出来事も、すべてが幻影のように人々の記憶から消え去ってしまった。

異次元の存在たちは、静かに次の出会いを待ち続ける。黄昏の彼方に佇むその影たちは、訪れし者を新たな理解の彼方へと招き寄せるために、永遠の静けさの中で目を光らせているのだ。

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