影に囚われた美夜子

狂気

むかしむかし、あるところに、ひとりの人ありけり。名をば美夜子と申せり。彼の地は深き森のなかにて、ひとは来らじところなり。美夜子はその深き森に住まいし者なりけり。

世よろづのもの、かの地に寄りつかず。鳥の声も聞こえず、風すら止まりぬ。その森にては、魔を宿すと云わるる樹なりて、ひとたびその木を見れば、心のうちに異様なるもの覚えけり。

美夜子、数多の時をすごし、ある日、森の奧にて白き影を見たりき。ひとつの声聞こえける、つぶやきの声、ささやく言葉。彼女の耳にふしぎなる響き届きぬ。「世のものは影にて、真の姿はこの森にある」と。

その言葉、繰り返しくる度に、美夜子の心は狂ひぬ。真昼も夜のとばりも分かたれず、夢と現はひとつに溶け合ひて、美夜子は日を追ふごとに常ならぬ様を見せり。月の光も翳りぬ。

いざ、いざ、何れの神に祈るべきや。天の声は彼処に響かず、地の唸りは止まらず。森の闇はゆらめき、彼岸の境もあやふく消え入りぬ。

美夜子の魂は深き森の中にてまどひ、声なき声に呼ばれぬ。「われ、影のなかにいませり」とその声、さらに囁き続け、美夜子をわれ知らず引き寄せぬ。彼女の眼にうつるは幻か、夢か、真か。

彼の者の来し方に伝ひし戒め、忘れ去りしや。影恋ふ者は影に染まりぬ、ひとたび染まば影と成りて、かの声の導くままに在れ。

くる夜、森の木立ちに囲まれ、ひとりて美夜子は影なるものに誘はれぬ。影は語れず、耳に残るは涼しき囁き。「常世の果てにて君を待たむ」と。

森の内にて、その言葉縄のごとく彼女の心を縛りぬ。道無きを見いだし、ひとたび足を踏み入れし時、森の呪いに囚はれぬ。

美夜子の姿は消え失せぬ、彼女が居た場所にただ森の囁きを残し、風と共に消え去りぬ。森もまた黙りぬ、彼女の物語は終わりを告げ、囁きはなお続かむ。

かくして、彼の森においてひとびとひとりひとり、影に吸い寄せられて失せぬること全て、戯れなる運命と知るべし。影に落ちし者、狂ひたる魂は森に囚はれ、道無き森に漂ふこと果てしなければ。

森の奥に消えたる美夜子、今もなお囁き続け、美夜子の影は森の主と成りぬ。影は影を求む、次なるものを。それゆえ、決して森に近づくべからず、さもなくば、影の囁きに囚われむことぞ。

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