山奥に潜む「山姥」と魂の囁き

妖怪

深い山奥にある小さな村、そこには古くから恐ろしい言い伝えが残されていた。その村の名を口にする者は少なく、その場所を訪れる者もほとんどない。村人たちは日の沈む前に必ず家に戻り、誰も夜の山へ足を踏み入れようとはしなかった。それは山の奥底に住むという「山姥」の話が、すべての者の心に刻まれているからであった。

村では、幼いころから「山姥」の話が語り伝えられていた。彼女は美しい若い女性の姿をし、山をさまよう者を優しく招き入れ、巧妙にだまし、最終的にはその魂を奪うという。それは美しさの裏に潜む恐ろしさであり、決して近づいてはならないという教訓として語られてきた。

ある晩秋のこと、都会から一人の青年がこの村にやってきた。彼の名は隆司、都会の喧騒に疲れ、静寂を求めて旅をしていた彼にとって、この村は理想的な隠れ家に思えた。しかし彼は村人たちの警告を全く信用せず、迷信だと笑い飛ばしていた。隆司はその夜、宿の窓越しに濃い霧が山間に満ちるのを見ながら、「山姥」の伝承にまつわる話を思い出し、己の好奇心を制御することができなかった。

次の日の朝、村人たちが止めるのも聞かず、隆司は山へと分け入っていった。黄金色に輝く朝の光に包まれた山道を歩きながら、彼は静かなる森の囁きに魅了されていく。しかし進むごとに、森は次第にその様子を変えていった。鬱蒼とした木々はどこか不吉に影を落とし、風の音に混じって何かが己を呼んでいるかのような囁きが聞こえてくる。

陽が傾きかけた頃、隆司は不意に道を見失った。見渡す限りの木々には目印になるものはなく、どちらに進めば良いかを判断することはできなかった。時計を確認すると、まだ午後であるはずだが、森に差し込む光は次第に薄れ、闇が静かに広がり始める中、彼は初めて恐怖の感覚を覚えた。

その時、どこからともなく若い女性の声が聞こえてきた。「こちらへ、おいで。」その声は不思議と心を落ち着かせる響きを持ち、隆司はその声の主を見定めようと目を凝らした。すると、木の影から現れたのはまるで絵画から抜け出てきたかのように美しい女性であった。長い黒髪が風になびき、白い着物を纏い、彼を儚げに見つめている。

彼女は微笑みながら手招きをし、隆司は自然とその誘いに応じてしまった。彼は彼女に惹かれ、何も考えることなく、まるで彼自身の意志ではないかのように、彼女の後をついて行った。歩を進めるたびに周囲の風景は不可解なほどに変化し、現実味を失っていくようであった。

やがて彼女はある清らかな泉のほとりで足を止め、こちらを振り返った。彼女の目は深い湖のように澄んでいたが、その奥底には何か説明できない、悲しみに似た感情が宿っているように見えた。「休んでいくといいわ。」彼女はそっと言い、泉の縁に座るように促した。

穏やかで非の打ち所のない姿に、隆司の警戒心は次第に薄れていった。彼は瞼が重く感じるのを抑えきれず、ついにその場に横になると、静かに目を閉じた。心地よい眠気が全身を包み、意識は徐々に遠のいていった。

夢の中、隆司は再び彼女の姿を追っていた。彼女の幻影は美しく、彼の名を優しく呼び続けた。しかし、その声は次第に変わっていく。微かな困惑と不安の混じる声色に変化し、やがて悲嘆の影を纏い始めた。まるで彼に何かを訴えかけているかのようだったが、その意味は彼には理解できなかった。

ふと目が覚めると、彼は夜の静寂の中、泉のほとりに横たわっていた。空は星もなく、雲に覆われ、ここがどこなのかも分からぬほどの暗闇に包まれていた。冷たい風が吹き抜け、身を震わせるような寒さが全身を貫いた。

その時、泉の水面に何かが動くのが見えた。彼は目を凝らした。水面には彼女の顔が映り、瞳は空々と彼を見返していた。彼女の唇が何かを呟いているように見えたが、音は風に掻き消され、ただその姿だけが静かに残されていた。

恐怖と戸惑いの中、隆司は立ち上がり、夢遊しているかのようにその場を後にした。しかしその瞬間から、彼の中で何かが変わったことを、漠然と感じ取っていた。彼は未だにその美しい幻影を忘れることができず、日々その声が耳に残り続けた。

村に戻った彼は、再びその話を誰かに伝えることをためらった。しかし内心、彼は何か大切なものを失ったような感覚に苛まれ続けた。村の人々にとって、彼の姿はどこか心を惑わす存在として映っていた。しかし、それを彼に告げる者はいなかった。やがて、彼は村を離れ、再び都会の喧騒の中へと消えていった。

それからしばらくして、村には再び不穏な噂が広がり始めた。山に入った人々が立て続けに行方不明になるという。村人たちは再び古い言い伝えを思い出し、噂は静かに彼女の存在を語り始める。「山姥」は再び姿を現したと。

彼女は今もなお、山奥に潜み、美しき姿を持って迷える魂を誘うのだろうか。恐ろしい伝承は、深い霧と共に、静かに村人たちの心を支配し続けた。そして、誰もが夜の山を見つめ、その中に潜む謎めいた影を恐れ続けた。穏やかな日常の中に潜む、言い知れぬ不可解さが、じわじわと人々の恐怖を掻き立てる。

隆司は今でも夢の中で彼女のことを思い返す。彼の中に根付いた彼女の囁きは消えることがなく、彼を永遠に彼女の世界に捕らえているかのようだ。それは決して目覚めることのない悪夢の連鎖であり、山の陰に隠された、永遠の恐怖の物語である。

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