僕は霊感が強いタイプではないと思っていました。普段から心霊現象なんて信じていないし、恐怖映画もあまり観ないんです。ですから、今回の出来事が起こるまでは、そんなことには無関心でした。
それは去年の秋、僕がひとり暮らしを始めたばかりの頃でした。東京の大学に進学し、初めての一人暮らしに心躍らせていました。住み始めたアパートは古びた木造の建物で、静かな環境が気に入っていました。家賃も手頃だったし、大学にも徒歩で行ける距離にあったので、ここに決めたことに間違いはないと思っていました。
部屋自体はかなり古かったものの、不自由なく生活していました。ただ、時々、不思議なことが起こるようになりました。例えば、寝ているときにふと目が覚めると、誰かに見られているような気がするのです。部屋には当然誰もいません。
最初は「気のせいだ」と自分に言い聞かせていましたが、その感覚は日に日に強くなりました。そして、ある日を境に、状況はエスカレートし始めます。
その日は大学の帰りが遅くなり、部屋に帰ったのは夜の8時頃でした。夕飯を済ませ、部屋の片付けを少ししてから、ベッドに横になりました。何も問題はないと思っていましたが、深夜、突然目が覚めます。
そのとき、部屋の中がとても静かになっていることに気付きました。外の車の音や、隣の部屋の生活音も一切聞こえないのです。そして、部屋の片隅に影のようなものがあるのに気付きました。「誰かがいる」。そう思った瞬間、体が固まってしまいました。動こうと思っても全く動けないのです。いわゆる金縛りという現象かもしれないと、そのとき直感しました。
影はしばらくそこに佇んでいるようでしたが、徐々にこちらに近付いてきます。恐怖で胸が張り裂けそうになり、必死に声を出そうとしましたが、何も発することができません。心臓の鼓動だけがやたらと大きく響き渡りました。「幽霊なんて存在しない」そう自分に言い聞かせても、影が近付いてくる足音がはっきりと聞こえるのです。
そして、影は不意に僕のすぐ横までやってきました。冷たい風が吹くかのように感じ、次の瞬間、その影はスッと消えていきました。すると、金縛りも解け、僕はその場で大きく息を吸いました。
翌日、あの出来事が現実だったのかどうか確認したくて、大家さんに「この部屋で何か事件とか、過去にあったんですか?」と聞いていました。すると、大家さんは少しの躊躇と共に「実は、この部屋の以前の住人が突然亡くなったっていう話があります」と教えてくれました。その方は一人暮らしで、結局、原因は分からず仕舞いだったそうです。
その話を聞いて以来、もうあの影を見ないようにしましたし、特に問題はなかったんですが、何かが心に引っ掛かるのは間違いありませんでした。まるで、彼の存在が僕に何かを伝えようとしているかのような気がするのです。
それから数週間が過ぎ、ある夜、再び金縛りに会いました。そのとき、また影が現れました。同じようにこちらをじっと見つめているように感じましたが、今回は少し違いました。何かを手で示すように動いているのです。
彼の動きを目で追っていると、どういうわけかクローゼットへと視線が誘導されます。好奇心と恐怖が入り混じる中、全身の力を振り絞って金縛りから逃れ、僕はクローゼットを開ける決心をしました。
クローゼットの中は普段と変わりないものでしたが、ある古びた箱に目が止まります。箱を慎重に取り出して開けると、そこには古い写真と手紙が入っていました。手紙には、先住人と思われる彼の苦悩と後悔が綴られていました。どうやら、彼は何か重大な秘密を抱えていたようなのです。
そのとき、部屋の空気が一変し、何か温かで安心するような感覚が広がりました。まるで、彼が自分の苦しみを分かってくれてありがとう、と伝えているように感じました。
あれ以来、不思議な現象はなくなり、影も現れることはなくなりました。でも、あの出来事が起きるまでは普通の日常だった自分の部屋が、あの日から少しだけ違った場所に感じられます。まるで、そこに彼がまだ見守っているような、でも穏やかに自然と同化したような感じなのです。
それ以来、僕はこの不思議な体験を胸にしまって日々を過ごしています。誰も信じてくれないかもしれませんが、実際に僕が体験した現実の出来事だと自分では理解しています。もしかすると、このアパートにはまだ彼の思いが漂っているのかもしれません。でも、今はもう怖くありません。あの出来事が、僕の人生において現実の一部となったからです。