霧深き森が誘う異界との邂逅

神隠し

霧が立ち込める秋の夕暮れ、一人の若者が国道沿いにある古びた森のそばを歩いていた。彼の名前は健太。久々に故郷に戻ってきた彼は、いつもの帰り道を懐かしみながら歩いていたが、今日に限っては冷たい風が彼の背筋をなぜかざらつかせた。

森はこの時期になると一層深い闇を抱く。健太はその森の中で何が起こるかを知っているわけではないが、幼いころからこの森には近づいてはいけない、という言い伝えがあった。それにもかかわらず、彼は何故かその森に引き寄せられるような感覚に襲われた。心の中に漂う奇妙な不安感を押しのけ、彼は一歩一歩を踏み出した。

やがて森の中に足を踏み入れると、空気は急に重くなり、あたりは静寂に包まれた。異常なまでの静けさ、その中で彼の心臓の鼓動だけが響いていた。何かが不自然だと感じた瞬間、背後でかすかな音が聞こえた。振り向くとそこには誰もいない。しかし、何かが動いた痕跡だけがある。

冷たくなった指先でスマートフォンを取り出し、時間を確認しようとしたが、何故か電波が一切届かず、時計は止まっている。彼は異様な感覚を振りほどこうと、さらに奥へと進んで行った。

すると、不意に足元の感触が変わった。苔むした地面は消え、いつの間にか砂利道に変わっていた。彼の内心の警鐘が激しく鳴り響いたが、進み続けることしかできなかった。周囲を取り巻く奇妙な世界に彼はどうすることもできず、ただ身体が導かれるままに、どこかへと進んでいく。

森のさらに奥深くに足を踏み入れると、小さな湖が目の前に現れた。その澄んだ水面には月が静かに佇んでおり、ひんやりとした夜風が周囲を包んでいる。不自然な湖の中央には、ぼんやりとした光が揺れているように見えた。それは見る者を惑わすような、魂を吸い込むような輝きだった。彼はその光に強烈に惹かれ、知らず知らずのうちに湖のほとりへと歩み寄った。

湖のほとりに腰を下ろすと、不意に背後から誰かに呼ばれたような気がした。振り返ると、森の陰からぼんやりとした人影がいくつか浮かび上がり、彼を見つめている。だが、それはどれも若干の違和感があり、遠くから見ていると明らかに人間とは思えない何かに感じられた。

健太はその光景に恐怖を覚え、心の中でありとあらゆる警報が鳴り響き、ここから逃げ出さなければという強い衝動に駆られた。しかし体は言うことを聞かず、彼はその場に釘付けになったまま、時間が止まったかのような感覚に囚われた。

その時、忽然と風が強まった。すると、その風に乗って囁くような心地よい声が頭の中に流れ込んできた。「来い、ここにおいで」と。声は優しく、穏やかでありながらも拒めない力を持っていた。彼の心は、その声に共鳴し、枝葉が擦れ合う音の中にその声を感じた。

気が付くと彼は湖の水面のほうへと脚を進めていた。その時、足元からじわりじわりと冷たい感触が迫ってきて、まるで湖に誘う手のようだった。湖の中央からはかつて見たこともない光がさらに輝きを増し、彼を引き込もうとしていた。

その時、突然空から稲妻が走り、天地がかき混ぜられるかのごとく強烈な轟音が響いた。瞬間的にその異様な囁き声は消え、健太は我に返った。だが、次の瞬間には意識が途切れ、彼は全てを忘れてしまった。

***

健太が目を覚ましたのは、村の老人の家だった。老人は彼の名を何度も呼び、目が覚めるまで声をかけ続けていた。彼は、どうやってそこにたどり着いたのか全く覚えていない。しかも、村人たちの表情には何か言えない恐怖と不安が漂っていた。

村に戻ってきた健太は、徐々に何かが違うことに気づき始めた。日常は元に戻ったかのように見えたが、何かが根本的に変わっていた。友人たちは奇妙に彼を避け、家族さえもどこか顔が違って見えた。

毎晩、彼は夢の中であの湖の光景に囚われ続けた。夢の中で、彼は何度も湖に引き寄せられ、同じ光に吸い込まれる感覚を味わう。しかし、夢の中で感じる不安と恐怖は、現実世界でも彼の心に頑強な影を落とし続けた。

ある日、健太は街の図書館で古い民話の本を手に取った。そこで初めて「あの森に迷い込んだ者は、元の世界に戻れぬ」といった内容の伝承を知った。しかし彼はすでにその何かと遭遇し、その何かにとりつかれたことを悟った。

その後も彼は、村人たちの中で孤立し、自分自身がまるで異界から戻ってきた者かのような恐怖に駆られる。自分の姿さえも、鏡を見るたびに以前とは何かが違っているようで、目は虚ろに虚ろを返し、心の底には深い虚無感がわだかまっていた。

昼間は常に人々の視線を感じるというのに、話しかけることも、話しかけられることも少なく、日々は淡々と過ぎていった。彼の心には、例の湖岸に腰掛けた瞬間の冷たさと囁きが、絶えず影響を与え続けているように思えた。

不意に訪れる秋の夕暮れと共に、彼の心に宿り続けた恐怖と不安はまた在りし日のまま蘇る。そして、今日もまた、あの異界的な恐怖に魅せられた一人の男が、森の向こうから見えぬ何かに向かって吸い寄せられるように進んでいくのだ。恐怖は終わることなく、永遠に続くもののように。

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