崩れゆく日常と異変の兆候

日常崩壊

僕の日常は、ごく普通のサラリーマンとして過ごす平凡なものでした。毎朝、少し早めに家を出て駅へ向かい、電車に乗って都心のオフィスへ通勤します。仕事をこなし、同僚と雑談を交わし、夕方にはまた電車に揺られて家に帰る。それが、僕にとってごく当たり前の生活でした。

でも、あの日を境に、何かが少しずつおかしくなっていったのです。

それは、月曜日の朝のことでした。いつも通り家を出て、駅へ向かって歩いていると、なんだか違和感を感じました。足元を流れる風の音が、いつもより耳に残るのです。駅にたどり着くと、改札付近の広告看板が奇妙に見えました。そこに貼られているポスターが、いつもと違うのです。先週までは新作映画の宣伝が張られていたはずなのに、全く知らない絵本の広告に変わっていました。まあ、広告が変わることくらいあるだろうとその時は気にも留めませんでした。

電車に乗り込み、車内を見渡すと、これもいつもと少し違う。乗客のほとんどが顔を伏せ、スマホをいじっているのはいつもの光景ですが、なんとなくその表情が硬いのです。目はどこか焦点を失っているようで、瞬きも少ない。もしかしたら、みんな寝不足なのかもしれません。そう自分を納得させて、座席に座りました。

会社に着くと、受付の田中さんに挨拶をしましたが、彼女は無言のまま微笑むだけでした。なんともいえない違和感がありました。自分のデスクに着いてからも、その違和感は続きます。書類に目を通そうとしたとき、文字がぼやけて見え、しばらく焦点を合わせることができませんでした。でも、これも寝不足のせいだろうと自分を納得させ、仕事に取り掛かりました。

ランチタイムになり、お気に入りのカフェに向かいました。注文を済ませ、いつもの席に座りますが、店内の様子がどこか違うことに気付きました。壁にかかっている絵画が、まるでこちらを見つめているように感じられるのです。それに、店員の動きもぎこちない。自分が座った瞬間、全員が一瞬でこちらに視線を向けた気がしました。でも、次の瞬間には再び仕事に戻っていきました。

次第に日が暮れ、オフィスを後にしました。駅に向かう道すがら、行き交う人たちの姿を見て、僕の中の不安は大きくなっていきました。彼らの顔が奇妙に歪んで見え、挙動もどことなく不自然。まるで一人ひとりが別の場所から連れてこられたかのようです。

家に帰り着くころにはもうぐったりとしていました。玄関の扉を開けると、なぜかリビングの時計が一時間遅れていました。「ああ、電池が切れかけてるのか」と、別に気にもせず時計を直し、シャワーを浴びることにしました。しかし、浴室の鏡を見た瞬間、背筋に冷たいものが走りました。

鏡に映る僕の顔が、僕ではない。目の形次第、気のせいでは片付けられない何かがそこにありました。心臓が早鐘を打ちます。震えながらその場を離れ、落ち着こうと深呼吸しましたが、その息がどこか上滑りしているように感じます。

息を整えベッドに潜り込むと、眠りは浅く、夢と現実の境目が曖昧な状態に陥りました。夢の中で、僕は見慣れた商店街を歩いていましたが、そこにあるはずのない黒い影が、視界の隅にちらつきます。気味が悪くて振り返ることができない。何度も目をこすり、目が覚めるたびに、夢の中と現実が交錯していきました。

翌朝、再び仕事に向かいました。駅へ向かう途中、道端の公園を横切ると、異様な光景に凍り付きました。普段は子供たちが遊んでいるはずの場所に、その姿が一人も見当たりません。代わりに、青白い顔の大人たちが立ちすくんで、何かを見上げている。彼らの目は、空の一点を凝視し視線を外そうとしません。思わず恐怖に駆られ、走るようにその場を離れました。

それからというもの、日常の風景がどんどんと崩れていきました。駅に着くたびにポスターが奇妙なものに変わり、公園では大人たちが何かの儀式のように集まっています。会社の同僚たちでさえ、別人のようになりつつありました。みんなが、どこかぎこちなく、一秒も目を合わせようとはしないのです。

さらに、家に帰ると日記帳が見慣れない筆跡で埋められていました。自分の記憶にない出来事が、他人の視点から記されたような内容で、どう解釈したらいいのかわからない。

ある夜、ベッドに潜り込むと、何者かが耳元で囁く声が聞こえました。「ここではないどこかに行け」と。それは、閉ざされた部屋の中で声が反響するように響き渡り、今もその声が思い出されるたびに背筋が寒くなります。

最初は、統合失調症にでもなったのかと思った。でも、この世界が崩れ始めている兆候を見過ごすわけにはいかなかったのです。

最終的に、僕はその町を離れることに決心しました。出て行く最後の日、街全体が無機質な視線で僕を見送っているような感覚に陥りました。もう、あそこには戻れない。日常を維持したいという願望が、あまりにも壊れやすいものだと痛感しました。

新しい生活を始めた今も、当時の記憶が夢を通じて蘇ることがあります。僕が逃げ出したあの場所が、本当にどんな世界だったのか、自分でも理解が追いつきません。ただ一つわかることは、日常という仮面を被った何かが、静かに蠢いているのかもしれないということです。どうか皆さんも、普段見慣れた風景に怪しい兆候がないか、気を付けてほしいと切に願っています。

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