私は、あの不可解な体験を今でも鮮明に覚えている。普段の生活に戻った今ですら、まるで夢か幻だったのかと疑いたくなる。しかし、全ては確かに私の身に起こった現実だったのだ。今日はその出来事について、お話しようと思う。
それは、ある夏の暑い日のことだった。私は、友人の誘いで登山をすることになった。彼の提案で、その日は人里離れた山奥を訪れることになった。知人の間では、その場所に古い神社の遺跡があると言われており、観光地とは程遠く、地元民さえもあまり立ち寄らない場所だ。しかし、私たちはその未知の地点に足を踏み入れることに妙な興奮を覚えていた。
車を山の麓に停め、私たちは長い山道を歩き始めた。木々の間を縫うように進み、やがて朽ち果てた石階段が現れた。そこが例の神社への道の始まりだった。登り始めると、辺りは急にひんやりとして、霧が私たちを包み込んだ。その時、全く予想もしないことが起きた。
私はふと、奇妙な感覚に捉われた。それは、空気の振動の中に何か得体の知れないものを感じ取るような感覚だった。友人も何か感じたのか、一瞬立ち止まり、周りを見回すが、何も異常は見当たらない。ただ、私たちの中には説明しようのない不安がじわじわと押し寄せてきた。
やがて、道は古びた鳥居へと続いていた。苔むした石に覆われたそれをくぐると、周囲の風景が一変した。今まで霧に包まれて薄暗かった林が、一瞬にして鮮やかな緑に輝き出したのだ。まるで別の世界に足を踏み入れたかのようだった。
時間が止まったかのように静まり返った空間の中で、私は奇妙な音楽を耳にした。それは、どこからともなく聞こえてくる、風が木々を渡る音や小鳥のさえずりと溶け合っていた。しかし、耳を澄ませば澄ますほどに、それが何か不自然なものであることがわかってきた。規則的でありながらも、不協和音のような不気味な旋律だった。
友人には何も聞こえないようで、彼はただ神社の遺跡を目指して進んでいた。やがて小さな祠が姿を見せ、その佇まいは、悠久の時を超えて生き残った古代の影のようだった。しかし、私の注意は完全にその音楽に奪われていた。何かに導かれるままに、遺跡を横目に、さらに奥へと足を進めてしまった。
地面は突然、その整地された感触から、ぬかるんだものへと変わり、私は木々の間を進んでいた。まるで自分の意志がなくなり、ある何かに操られているかのように感じられた。その先には、何もない空間が広がっていた。一面に広がる宙ぶらりんの空。地面もなく、上も下も定かではなかった。
恐怖が背筋を駆け巡り、振り返って逃げ出そうとした。しかし、身体が動かない。ただ視界に映るのは、無限に広がる不毛な虚空だった。そして、私はそこで初めて目撃することとなった。これまでの感情を根本から覆されるような存在を。
それは、形をなしていると言えば嘘になる。しかし、そこには確かに何かがあった。視界の中央に佇むような、あるいはこの場所全体を構成する不可解な何か。目に見えても見えないその存在が、私の存在そのものを凝視するように感じられた。
思考が停止し、私はただその圧倒的な存在感に飲み込まれていった。終わることのない永遠をそこに感じ、自分がどこにも辿り着けない虚無に引き込まれていくようだった。その瞬間、全ての感情が無となり、恐怖さえ感じなくなった。
どれだけの時間が経ったのか、現実に引き戻されたのは友人の叫び声だった。「戻れ!ここにいてはいけない!」。その声に何か力を取り戻し、私は必死に後ずさった。彼が必死に手を伸ばし、私の腕を引っ張ってくれた。
気が付くと、私たちは再びあの鳥居の下に立っていた。全てが夢であったかのように普通の山道に戻っていたが、体験した恐怖は夢では済まされなかった。互いに無言のまま、私たちはその場所を足早に立ち去った。
私はそれ以来、その場所には近づくことは避けている。あの日、何を見たのか、何と遭遇したのかは今でもわからない。ただ、あの存在がこの世界とは異なる次元に属するものであり、私たちの理解を遥かに超えたものであることだけは確かだ。そして、それが再び私の前に現れるのではないかという恐怖が、今も心の片隅に根強く残っているのだ。