木漏れ日が優しく降り注ぐ、静かな田舎町。田んぼの緑は一面に広がり、遠くには低い山々が連なる。毎朝、鳥のさえずりで目を覚まし、古い木製の縁側に座って湯気の立つお茶を飲むのが習慣だった。隣近所の人々は挨拶を交わし、子供たちは自転車で田舎道を駆け巡る。――誰もが「自然に囲まれた穏やかな日常」と信じて疑わずにいた。
そんな日々の中で、瑠璃子という一人の女性が静かに暮らしていた。彼女は30代後半、都会に出て働いていたが、両親の急死をきっかけにこの故郷の家に戻ってきた。そこで小さな野菜畑を耕し、自給自足に近い生活を送っていた。
最初に変化を感じたのは、ある朝のことだった。いつものようにお茶を淹れ、縁側に座っていた時、不意に足元の畳が微かに揺れるのを感じた。地震かもしれないと思い、じっと耳を澄ませたが、どこからも家がきしむ音は聞こえない。それよりも逆に、風もなく、鳥の声さえも消え入りそうな静けさが辺りを包んでいた。気のせいかもしれないと思い直し、瑠璃子はいつも通りの日常に戻った。
しかし、それからというもの、日常の中に不協和な音が混じるようになった。例えば、村の図書館に行く道でいつも見ていた大きな桂の木。ある日、その幹にびっしりと何百もの虫食いの穴が開いているのを見つけた。まるで長い年月を生きた木の老衰を見るようで、それが自然の変化と思うか、異様な光景と思うかで心が揺れ動く。
家に戻り、庭を見渡せば、小鳥たちがいつの間にか姿を消している。どこかに餌を探しに行ったのか、それとも何か他の原因があるのか。夕焼けに染まる空の下、遠くで牛の鳴き声が聞こえたはずなのに、それも次第に記憶の中で消えていく。
ある日、瑠璃子は町内の集まりに出かけた。その席で、数人の顔見知りのお年寄りが、「近頃、物騒なことが多くなったね」と口にした。具体的な話を尋ねれば、「姿を消した猫がいる」「昨晩、夜空で見たこともない光が踊った」と皆が口々に語る。普段と変わらぬ日常の中に混じる小さな異常。それが町全体に広がり始めているのかもしれない。
その夜、瑠璃子は布団に入ってしばらく、どうにも寝付けず、天井を見つめていた。暗闇の中、聞こえてくるのは自分の呼吸音と、わずかに風で揺れる障子の音だけ。眠れずにいると、急に耳の奥で、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。子供のころ、田んぼの畦道で友人たちと遊んでいた時に聞いたような、懐かしい声だった。
次の日、思い切って声が聞こえた田んぼに出かけてみることにした。目の前に広がる風景は、子供の頃と変わらぬ穏やかさを湛えている筈だったが、土地に足を踏み入れた瞬間、予感が現実味を帯びた。田んぼの稲が風もないのに、まるで何者かに撫でられているかのように揺れている。近づくと、稲の肌から青臭い匂いが漂い、目を凝らせばその隙間には無数の虫の死骸が埋め尽くされていた。
その日を境に、瑠璃子は時折訪れる町の異様な風景にすっかり心を囚われていく。何らかの理由で日常は少しずつ崩れ去り、目に見えぬ何かが走り回っているような気がしてならなかった。
訪れる日々は、まるで誰かによって仕組まれていたかのように少しずつ変わり始めた。夜になると、決まって耳元でささやく声が聞こえる。その声は次第に増え、夜の静寂にまぎれ、深淵の底から呼びかけてくるようだ。
ある晩、瑠璃子は決意を固めた。あの声の元凶を突き止めなければ、自分はきっとこの不可思議な悪夢に飲み込まれてしまうだろう、と感じたのだ。町の外れにある小さな神社。その鳥居がふと心に浮かび、彼女を呼び寄せる何かがあるような気がした。
深夜、懐中電灯を手に参道を歩んでいくと、霧が薄く漂い、視界は頼りない。鳥居の前に辿り着き、静かに深呼吸をした。薄暗闇の中、朱色の鳥居がぼうっと浮かび上がる。そして、その奥には、鎮座する神社の堂々たる影が見えた。
灯りに照らし出された境内には、誰もいないはずなのに、人の気配がする。胸が高鳴り、懐中電灯を消して、消え入るような月光だけを頼りに進んだ。その時、不意に背後から「来たね」と囁く声が耳に飛び込んできた。振り返ってもそこには誰もいない。
心の中に重くのしかかる恐怖と闇。瑠璃子はふいに立ち止まり、天空を見上げた。そこには雲ひとつない夜空が広がっている。しかし、瞬きを忘れるほどに一瞬の静寂が訪れ、星々が蠢きながら配置を変えていくのが見えた。その光景は、まるで夜空そのものが意思を持ち、自らの形を変えようとしているかのようだった。
足元から木々のざわめきのない音が響き、神社の古い扉がひとりでに軋みを立てて開いた。中は暗闇が支配し、厳かな雰囲気が漂っている。恐怖を飲み込みながら、瑠璃子はけれどもどうしても自らの内なる好奇心と闘うことができず、その中へと一歩を踏み出した。
すると、不意に周囲に暖かい風が吹き始め、まるで誰かに見られているような感覚が全身を包んだ。その瞬間、瑠璃子は理解した。ここは日常の一部ではない。「ここ」は彼女の知らない何か、常識という名の幕を超越した異界そのものだと。
一瞬、すべての音が消え去り、再び何事もなかったかのように日常の静けさが戻ってくる。それ以降も依然として、瑠璃子の中で何かが少しずつ崩れていく予感は消えなかったが、彼女はそれを恐れず歩み続けることを選んだ。日常はいつからともなく、彼女にとっての新たな日常となり、それでもその中に流れる時間は、変容を続ける風景に反映されるように静かに流れ去る。
幾度も繰り返される、受け入れがたい感覚の先に、彼女は自分自身の変化を迎え入れ始めていた。それは異界の入り口に、旅路の先に広がる無限の空を見据える、一つの決意の顛末でもあった。