忘れられない山奥の旅館の恐怖体験

狂気

私は普段、特に霊感があるわけでもなく、ホラー映画を見ても大して怖くならない程度の人間です。そんな私が、どうしても忘れられない体験があります。それは、友人のAに誘われて行った、ある山奥の古い旅館での出来事です。その旅館は、都会の喧騒を離れ、静かに過ごしたい人々に人気の場所だと聞いていました。

Aは大学時代の友人で、彼とはよく旅行に出かけました。今回は、その旅館が新たに開放された特別室に泊まろうという話でした。特別室は改装が終わったばかりで、古いが清潔感のある和風の部屋だと案内されました。

最初の夜、特別室に落ち着いてから、違和感がじわじわと迫ってきました。特に怖いことがあったわけではありません。ただ、異様なまでの静寂が、肌にまとわりつくような心地でした。Aも少し落ち着かない様子で、「この静けさ、ちょっと異常だよな」と言っていました。

夜が更けると共に、私の頭の中で一種の不安が膨らんでいきました。Aは既に眠りについたようでしたが、私はどうも寝付けず、辺りをボンヤリと見渡していました。ランプの明かりがぼんやりと天井を照らし、その薄明りの中で、壁に描かれた古い絵柄が妙に浮かび上がって見えました。

気のせいだろうと自分に言い聞かせても、どうしても目をそらせませんでした。やがて、絵柄の中の一つ、一面を覆う雲間から垣間見える顔が、こちらを見ているように思えてきました。そう思った瞬間、それまで感じていた違和感が、一気に恐怖となって押し寄せ、私はベッドから跳ね起きました。

その音にAも目を覚まし、私に「どうした?」と尋ねました。私はどう説明して良いかわからず、ただ「なんでもない」とだけ答えました。Aはひどく寝ぼけた様子でしたが、しばらくして再び眠りに落ちました。

明け方、眠れないまま虚ろな意識で夜を過ごした私は、どうにか少しだけ眠りましたが、夢と現実の境目が曖昧で、うなされ続けました。夢の中で、私は旅館の廊下を歩き続け、やがて別の部屋の襖を開けると、そこには誰かが立っていました。その人物の顔は、壁の絵柄の中の顔でした。

目が覚めると、汗びっしょりでした。Aが心配そうにこちらを見ていて、「大丈夫か?」と聞かれました。私は夢に過ぎないと自分に言い聞かせながら、軽く頷きました。

二日目、私たちは近くの温泉に行くことにしました。その間、私は頭を振って、昨夜の出来事を忘れようと努めました。しかし、頭の中では絵柄の顔が再び浮かび、何かを囁いているようでした。温泉では、Aもリフレッシュしたようで、「やっぱり温泉は最高だな」と笑顔を見せていましたが、私はどうも心から楽しめませんでした。

旅館に戻ると、私たちはまた特別室に戻りました。夕食を終え、再び夜がやってきます。私は、新たな恐怖に襲われる予感に怯えていました。そして、その予感は的中しました。

夜半過ぎ、私はまたしても目が覚めました。今度は明確に聞こえる、何かが壁の中からささやくような音。「ここから…出て行け…」と。それが私の幻聴なのか、実際に聞こえたものなのか、判別がつきませんでした。そして、その音の源を辿ると、不意に壁の一部が捲れ、そこには秘密の空間があるのを見つけました。

私は引き寄せられるようにその中を覗き込みました。そこには、古びた和箱が一つ置かれていました。箱を開けると、中には古い写真が一枚ありました。その写真には、まさに夢で見た彼の顔が写っていました。そして、写真の裏には短い走り書き。「忘れられぬ顔」という一言でした。

その瞬間、全てがはじけるように理解し、ある一つの事実にたどり着きました。この旅館は、過去に何度も何かがあった場所で、写真の彼はその犠牲者だった…そう言わんばかりの流れです。

恐ろしくなった私は、その場から逃げ出したい衝動に駆られ、Aを叩き起こしました。「ここは何かがおかしいんだ、出よう!」と私は必死に訴えましたが、Aは訳がわからないといった様子で呆然としていました。それでも私の切迫感に動かされ、支度をし始めました。

夜中の旅館を、私たちは足音を忍ばせながら進みました。出口に向かう道すがら、背後からの視線が常に付きまとっているような錯覚に囚われました。振り返るたびに、そこには誰もいないのですが、そのたびに喉元がひきつれるような恐怖を感じました。

外に出てから、生暖かい風が吹き抜けました。私はその風に包まれ、ついに目が覚めた心地がしました。Aは、そばに立っているだけで、表情はどこか遠くを見ているようでした。

その後、私たちは無言で車に乗り込みました。旅館からの帰路、私たちは一切会話を交わさず、ただ車のエンジン音だけが響いていました。Aもまた、何かを察していたのでしょう。

それ以来、あの旅館には二度と行くことはありませんでした。夢と現実の境目が曖昧で、精神が徐々に削られていくようなあの恐怖は、私の中で今でも息づいています。

後から知ったことですが、あの旅館の特別室は、かつては使われなくなったまま、長い間封鎖されていたそうです。理由は語られることはありませんが、多くの人々に忘れられぬ何かを残しているのだと思います。

私とAはその後疎遠になりました。連絡を取っても、旅館でのことには一切触れようとはしません。そして私自身も、あのときの体験を他人に話すことはありません。恐怖が蓋をされた記憶として心の奥深くに眠っていますが、それでも、時折、夜が更けると、またあの囁き声が聞こえてくるような気がして、眠れぬ夜を過ごすことがあります。

タイトルとURLをコピーしました