僕は都会を離れ、田舎の古い家に引っ越すことにした。仕事の関係で自然豊かな環境の方が都合が良かったし、静かな場所でのんびりと暮らすのも悪くないと思ったからだ。その家は、近くに小川が流れ、裏山には竹林が広がっているという理想的な環境だった。
引っ越しの日、荷物を運び込み終えた僕は、改めて新しい生活のスタートに期待と少しの不安を感じていた。まだ慣れない生活が始まる中、夜になるとその静けさに息を呑んだ。都会にいた頃には考えられないほどの闇と静寂がそこにはあった。しかし、それにすぐに慣れるだろうと自分に言い聞かせ、眠りについた。
最初の数週間は何事もなく過ぎ去った。仕事と家の片付けに追われ、休日には周囲の探索を楽しんでいた。しかし、ある夜、少しずつ奇妙な違和感が芽生え始めたのだ。
その夜、いつものように床に就こうと電気を消し、布団に入った。静まり返った部屋で、どこからか微かな音が聞こえてきた。はじめは風で何かが揺れる音かと信じたが、それは一定のリズムで続いていることに気づいた。まるで誰かが壁を指で叩いているような…。でも、隣近所に人が住んでいるわけでもないし、風にしてはおかしいと思った。
翌朝、仕事に行く前に壁を調べてみたが、何も異常は見当たらなかった。「風のせいか、気のせいか」そう思い、深く考えないことにした。しかし、その夜も同じ音が続いた。不安になった僕は、もう一度明かりを付けて家の中を確認してみたが、特に変わった様子はない。音はやはり壁から聞こえるようで、外に出て確認しても特に異常はなかった。
ある夜、その音は次第に大きくなっていることに気づいた。更に、夜中に小川の近くを散歩していると、竹林の中から誰かが囁いているような音が聞こえてきた。耳を澄ますとそれは普通の言葉ではなく、何かがぶつぶつとつぶやいているように聞こえた。「誰か、いるのか?」と思い、声の方向に近づこうとしたが、足が動かない。しばらくしてその音は消え、静寂が戻った。
それからというもの、日中も不安が消えることはなくなった。小さな物音や何気ない風景にもおかしさを感じ、どこかで誰かに見られているような気がして仕方がなかった。特に家に帰るとき、玄関のドアを開けるときに強い違和感を覚えた。まるで誰かが内側からドアノブを握っているかのような…。
ある日、休日を利用して少し遠出し、帰りが夕方になった。その道中、突然の豪雨に見舞われ、濡れながら家に着いた。玄関を開けた瞬間、いつもとは違う嫌な空気感が身体中を駆け巡った。部屋の中に誰かがいるような、そんな感覚があった。慌てて全ての部屋を確認したけど、やっぱり誰もいない。
しかし、その後も壁の音と囁き声は続けて聞こえてきた。少しの恐怖を感じながらも、どうしてもこの家を離れる決心がつかないでいた。
ある秋の日、夕方からの雨が竹林を濡らしていた。僕は小説を読むために部屋の机に向かっていたが、読んでいるうちに壁の音がまた聞こえてきた。音に合わせて微妙に揺れる壁…。それはまるで、この家が生きているかのようで、不気味な感じは日に日に増していった。
雨が上がったころ、再び昼間のようなあの囁き声が聞こえてきた。立ち上がり、窓から外を確認すると、竹林がかすかに風に揺れているだけだったが、そのとき初めて、その声が完全に僕の後ろから聞こえていることに気づいた。
振り返ると、そこには何もない。ただし、振り返った瞬間に音も声も消え去り、ただの静寂が残された。
その時、僕は初めて認めざるを得なかった。この家には何かがおかしい。ただの自然音や空耳ではない、何かが確かにそこに存在している…
今でもこの家に住んでいる。もう少しだけこの家での生活を続けるつもりだが、この不可解な現象の正体を突き止めるか、あるいはその理由が解明されない限り、僕の心は落ち着きそうもない。冒険心や好奇心がそれを許してくれないから、今日もまた、ここで日常を過ごしている。もしかしたら、近いうちに何らかの答えが見つかる日が来るのかもしれない。そんな期待とも恐怖ともつかない感情を抱きながら。