山間の小さな村、名を旧桜川村といった。そこに足を踏み入れた者は、「村にまつわる何か」に触れると呪われるという噂が絶えなかった。今では人の往来も稀となったこの場所に、一人の若き作家、山田直之が訪れていた。彼は村に伝わる呪いについて、かつて世間を震撼させた実際の事件を元に小説を書こうと考えていたのだ。
この村が抱える呪いの発端は、江戸時代にまで遡る。当時、村の裏山には豪農の屋敷があり、そこで多くの使用人たちが働いていた。ところが、その豪農は冷酷非道な男で、使用人たちを酷使し、使い捨てるように扱っていた。そしてある春の日、使用人たちの不満が爆発し、豪農は屋敷もろとも焼かれてしまった。その炎の中で儚く散った怨念が、この村を呪い続けていると伝えられている。
直之がその村に足を運ぶのは、現代においても呪いが続いているという噂を聞いたからだ。過去にあった幾多の怪異事件、村から失踪した者たちの行方不明事件は、全てその呪いに起因しているとされた。直之はその記録を追い、事件の謎を解こうと決意した。彼の心中には、ただただ好奇心があった。
村に着いた直之は、古びた山間の宿に宿泊することにした。宿の主人は、呪いについてはあまり語ろうとしなかったが、言葉少なに「余計なことはしない方が良い」とだけ忠告してきた。何が余計なことなのか、直之には皆目見当がつかなかったが、彼はそれを笑い飛ばして、さらに調査を進めた。
数日間、村を歩き回った直之は、村の風景をカメラに収め、メモを取っては古い文献を漁った。徐々に彼の中で、村に眠る過去の呪いの全貌が明らかになり始めた。呪いは、果たして本当に存在するのか。彼は半信半疑だったが、心の片隅ではそれが真実であってほしいとも思っていた。しかし、真相を追う中で一つの疑念が湧き上がっていた。それは、「現代の村人たちもまた、何かを隠しているのではないか」ということだった。
ある日、直之は村の古老から聞いた話を基に、裏山の豪農の屋敷跡を訪れた。跡地には今もなお、かつての基礎石が残り、異様なほどの静寂が辺りを包んでいた。その時、直之は何かに呼ばれているような感覚を覚えた。そして、無意識のうちに彼はその場で地面に手を伸ばし、古びたお守りのようなものを掘り出した。それは、表面に得体の知れない文字が刻まれた不気味な石だった。
手にした石を見つめた瞬間、直之の脳裏に恐ろしい幻影が広がった。そこには、炎に包まれる広大な屋敷と、助けを求め必死に逃げ惑う人々の姿があった。彼らは、直之に目を向け悲嘆の声で何かを言っている。しかし、それは何も聞こえない。直之は激しい頭痛に襲われ、気を失う寸前だった。
翌朝、宿の自室で目覚めた直之は、昨夜の出来事が夢でないことを確認するために手元を見た。手には昨夜掘り出した石が握り締められていた。何故その石を自分が持ち帰ったのか、直之にはその記憶がなかった。だが、彼はその石を研究することで、この地の呪いの謎を解く鍵が見つかるのではないかと思った。
彼は引き続き石を調べようと、その日も村を訪ね歩いた。村の人々にその石を見せるも、誰もが顔を青ざめ、口を閉ざすばかりだった。村ではその石を見せること自体が忌まわしいものとされているようだった。しかし、ある老婆が耳打ちするように言った。「その石を手にしたなら、覚悟を決めなければなりません。この村の過去を知りたければ、あなた自身もそれを背負う覚悟が…」
老婆の言葉が頭に残り、直之の心に重くのしかかる。だが、彼の好奇心はもう止まらなかった。彼は全てを知りたかった。呪いの正体、そしてその解除方法を――。
その夜、彼は宿の部屋で石を手に、再び幻影を見ることを期待しながら目を凝らした。そして現れるのは、かつての惨劇そのものだけではなく、現代の村の姿に重なる新たな惨劇の兆しだった。幻影の中、村人たちは再び何者かに追い詰められ、苦痛に満ちた声で叫び、逃げ惑っていた。
直之は、自分の目の前で起こっている恐ろしい現実に戦慄し、呪いの真相を全ての村人が知っており、現代までそれを守ろうとしていることを理解した。しかし、彼が手にした石は、過去の呪いを解き放ち、再びその恐怖を解き放とうとしているのかもしれない。彼の手の中でその石は微かに脈打ち、生きているかのように熱を放っていた。
不意に、直之は考えてしまう。「もし、このまま全てを知らなければ、何もかもが闇の中で終わってしまうのではないか…?」彼は、石を再び地に返すことを決めた。このままでは、過去の怨霊が再び村を覆い、そして自分自身も取り込まれてしまう恐れがある。
次の日、直之は再び裏山に向かった。薄曇りの空の下、彼の足取りは重く、心は暗澹としていた。石を持つことで見た幻影が彼の脳裏にこびりついて離れなかったが、村のことを、自分の命をも脅かすこの呪いの根源を断ち切らねばならなかった。
直之は元の場所に石を戻し、静かに手を合わせた。「この土地の苦しみが、どうか終わりますように」。その瞬間、風がざわめき、彼の耳元で何やら囁く声がした。それは、かつてこの地に居た者たちの感謝と解放の嘆願であるかのようだった。
村を離れる直之の心には、ある種の安堵と寂しさが入り交じっていた。彼は、村を去る時に振り返ることを思わずに、ただまっすぐに歩き続けた。そして、村の人々がなぜ口を閉ざしていたのか、その理由を胸に秘めたまま、彼は次第に霧に包まれる旧桜川村を後にした。彼の中には新しい物語が、今やしっかりと根付いていた。