村はずれにある古びた洋館、その廃墟のような佇まいが、長い間そこに住む者たちの記憶に深く刻み込まれていた。誰もが遠巻きに見るだけで、近づこうとはしない。ある日、京都から来た青年、秋山がこの村を訪れ、何気なくその洋館に惹かれていた。旅の途中で道に迷い、偶然出会った場所だったが、一度目にしたその時から、何かしら頭を離れない不思議な感覚に囚われていた。
「この村には不思議な話が色々ありますよ。」地元の古びた喫茶店で出会った初老の男が、ふと話題を振ってきた。「特にあの洋館、夜になったら誰も近づきません。それどころか、昼間でも不気味に思う人が大勢います。」
初めての訪問にもかかわらず、秋山はどこか懐かしいような妙な感覚を抱きながら、その話を聞き入れた。地元では有名な話と言われ、誰も中を訪れることはなかった。だが、どうしてもあの洋館が気になって仕方がない秋山は、ひとりで洋館を探検することにした。
初日の朝、村の霧が立ち込める中、秋山は重い鉄の門を開けた。庭は手入れがされていない様子で、草が生い茂り、足元は滑りやすい。洋館に一歩足を踏み入れると、古い木の軋む音が響き、まるで囁く声のように静寂をかき乱す。
内部は長い年月の蓄積で薄暗く、埃と黴の匂いが漂う。風が通り抜ける音に耳を澄ませば、家のどこかでかすかな音楽が流れているようにも思える。しかし、実際に音源を見つけることはできなかった。不思議な居心地の悪さを感じつつも、好奇心がそれ以上の不安を押しのける。心の奥底では、何か定かではないものが自分を待っていると感じさせられた。
階段を上がり、二階の一室に足を踏み入れたとき、秋山は不思議なデジャヴを感じた。その部屋は、何度も夢で見た光景に酷似していたのだ。古い机の上には埃まみれの写真立てがあり、何かを書き付けられた日記帳が置いてある。不思議なことに、その日記の最後のページには、今日の日付が記されていた。
「まるで私を待っていたかのようだ。」秋山はそう呟き、日記の内容を読み始めた。
その内容は、洋館に住んでいた家族の物語だった。日記には、家族構成や日々の出来事が細かく記されており、どこか現実感を欠くものであった。特に奇妙だったのは、その家族の生活が日記を読む手と同時進行するかのように、秋山の目の前で映像となって浮かび上がってくることだ。
家族の食事の際、母親が振る舞う料理の香りが感じられ、子供たちの笑い声が微かに耳をかすめ、父親が何やら大切そうにノートをつけている様子まで、細部に至るまで鮮やかに再現されている。その映像に引き込まれた秋山は、夢中でページをめくり続けた。
あるページには、家族の間で起きた取るに足らないような口論が記されていた。しかし、その一つひとつが次第に激しさを増し、深刻な亀裂を生んでいった様子が、秋山の頭の中で鮮明に再生された。だが、決して異様なことは書かれていない。何かがおかしいと感じるのは、映像ではない、まるで自分がその場にいるかのような錯覚──いや、錯覚ではない現実感だ。
ページをめくり続けるうち、ついに家は崩壊し、家族はそれぞれに破滅していった。その最後のシーンが秋山の心に突き刺さる。何故かその光景を、心のどこかで期待していたような気がしていた。
突然、廊下から足音が響いてきた。秋山は驚き、日記を閉じて振り返った。誰もいないはずの家の中で、確かに誰かが自分を見ている、そんな感じがしてならなかった。居ても立っても居られず、秋山は逃げ出した。廊下の角を曲がった瞬間、一瞬見えたのは、昔の自分自身か?
逃げる足音とともに、何かが追いかけてくる。心臓の鼓動が耳元で声を立てているようだった。やがて、安全なはずの外へと出ると、彼は深く息を吸い込んだ。森を抜け出しても、追いつかれた感覚が拭えない。
村に戻った秋山は、あの洋館の話を聞かされた初老の男のいる喫茶店に戻ったが、彼の姿はなかった。代わりに、店主らしい女性がシンプルに説明した。「あの男は、実はあの洋館の元所有者の一人です。死んだ家族の一員だったという話もありますが、実際のところは誰にもわからないんです。」
村を去ることを決めた秋山の脳裏に刻まれたのは、誰もが語る洋館の奇妙な伝説ではなく、そこで彼自身が経験した何かだった。村を後にする電車の中、秋山はかすかな耳鳴りのように、あの時の気配がまだ耳元で囁いているのを感じた。
彼はもう二度とその村を訪れることはなかったが、あの霧の中で感じた何かがおかしいという感覚は、その後も彼の人生の中で影のようにつきまとった。そして彼の知る限り、その洋館には他の訪問者もいなかった。それは、あるべきところに収まった一つの物語であり、かつては彼自身が演じた幻想だったのかもしれない。