「崩壊する日常と見えない恐怖」

日常崩壊

朝の光が柔らかくカーテン越しに差し込む、どこにでもあるような部屋。私は布団から起き上がり、窓を開け放った。外は清々しい初夏の風が吹き、庭の草木がざわめく音が耳に心地よい。今日もいつも通りの一日が始まるはずだった。

会社への通勤電車はいつもより少し混んでいたが、それもまた日常の一部だと思い込み、特に気に留めなかった。いつも乗り降りする駅、そして見慣れた顔ぶれの乗客たち。そう、今日も変わらぬ日常が続いている。いや、そう思っていた。

その日、職場に着くと、妙に視線を感じることに気付いた。同僚たちは何かを遮断するように視線を合わせず、口数も少ない。朝のミーティングでも、誰もが私に対し一歩距離を置いているかのような態度を取っていた。それは小さな違和感であり、深く考えるべきことではなかったのかもしれない。だが、その違和感は次第に私の中で大きく育っていった。

ランチタイム、思い切って同僚の一人に声をかけた。「ねえ、何かあったの?」と問うと、彼は少し躊躇したのち、低い声で囁いた。「…何も。でも君、この頃様子が変わったような気がしてね。」答えはぼんやりとしていたが、彼の表情には隠しきれない不安が漂っていた。

仕事を終え、夜道を歩きながら私は考えた。足音が後を追ってくるような気がして振り返るが、そこには誰もいない。日常が少しずつ狂い始めたとも感じられるが、明確な証拠はどこにもない。ただ、見えない何かがじわじわと迫っている。それが視覚化されない恐怖は、私の胸底に重く沈殿し始めた。

家に戻ると、いつもなら暖かく迎えてくれる妻もどこかよそよそしい。夕食を共にしながらも、彼女の視線は私を避け、会話は短く途切れる。そして、寝室に入るとき、彼女がふと呟いた。「あなた、本当にあなたなの?」

その言葉に血の気が引く。ここ数日の不可解な出来事、周囲の微妙な異変、全てがこの一言に集約されているように思えた。私は鏡を見に行き、自分の顔をじっと見つめた。そこに映るのは間違いなく私自身であるのに、どうしてか落ち着かない。他者から見れば何かが異なっているのだろうか。鏡の中の自分が、実は他人であるような感覚に囚われる。

翌朝、目覚めると不安はさらに募っていた。いつも通りのつもりで出勤しようとしたが、家のドアを開けた瞬間、信じられない光景が広がっていた。庭の風景が昨日と完全に変わっていたのだ。植木鉢が一つもなくなり、代わりに見知らぬ花壇が鎮座している。青々とした芝生はどこにも無く、代わりに乾いた雑草が辺り一面を占めている。

何がどうなっているのか、理解が追いつかない。しかし、これは私だけの問題なのか、それとも世界そのものがおかしくなっているのか。家を出て電車に乗って見たら、車内の様子もどこか変だ。いつもと同じはずの光景が、何か異質なもので覆われているように見える。このような違和感が積み重なることで、日常は少しずつ崩れ去っていく。

会社に着くと、オフィスのレイアウトすらも昨日と違っていた。机の位置が変わっているだけでなく、壁に飾られた絵も差し変わっている。何よりも、普段ならいるはずの同僚の姿がない。代わりに、以前見たことのない人々が私に対して無表情で挨拶を交わしてくる。

パニックに陥りそうな自分を必死で抑え、冷静に状況を分析しようと試みる。日常が音を立てて崩れ落ちつつあるこの現実。何が真実で何が虚構なのか、その曖昧な境界線を見極めることができなくなってきている。まるで夢の中でさまようかの如く、確かであるはずの日々がどこか歪んで見える。

午後の会議、何度も訪れたことのある会議室すらも変貌していた。見慣れた時計の針は逆に回り、机の上の書類はいつの間にか白紙の状態になっている。何故こうなったのか、誰も説明できないし、当然のように流れ続けている。私だけがこの狂った世界に迷い込んでしまったのか。

夜、家に帰る。妻はそこにいた。だが、彼女の表情はまるで他人を見るようだった。私が話しかけても、微動だにせず、ただ座ってこちらを見ているだけだ。彼女のいるはずの温かい日常が、冷たいものに変わってしまったことを実感する。ベッドに入っても眠れず、ただ暗闇から忍び寄る違和感のみが私を包み込む。

そのまま眠りにつくことなく、次の日また同じように朝が来る。だが、今日は何もかもが完全に違っていた。外に出ると、道路は消え去り、目の前に広がるのは見たこともない光景だった。全てが初めて見る景色であり、私の知る日常はどこにも残っていない。世界は静かに、しかし確実に崩壊し、私をもう一つの現実へと誘っていた。

それが最後、私が知っていた日常がどこかに溶け込み、一切の確かなものを失った瞬間だった。私は新しい日常の中で生きるしかなくなり、かつての日々は二度と戻らない。そうして、私の心は一層深い闇に沈んでいった。日常崩壊の果てに広がる無名の恐怖が、私の全てを飲み込んでいく。

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