彼方より来たれり、影よ、影よ、ワガ魂を覆い給え。夜半の闇、深き山に在りては、灯火の如く、死者の声は清き水神の如く流れり。幾星霜の昔、あの山中に一人の若き娘おり、名をば楓と申せり。彼女の心願は、恋人と共に幸せなる生活を営むことなりけれど、運命に抗うこと能わず、恋人は彼岸に渡りし。
彼女の慟哭、巌も滴る涙となりて、山川を浸し、遂には道標も失わんとせり。彼女の若き命、恋人の後を追わんと山の淵に身を投じぬ。魂魄、あの世へ渡らんとするも、未練の糸に絡め取られ、現世に留まりし。
暁の鐘の音、濁れる声となりて森を包みたり。里人は言い伝えたり、「夜半に鳴る声は、楓の慟哭なり」と。彼らは村より山を避け、暗き時を過ごすを習えり。
時は流れ、影は形変えしが、楓の魂魄、未だに山中を彷徨い続けり。その場所、清霊の社と化して、旅人をも迷わせたり。彼の彼女が葬りし場所、伝え言うそこなる石碑は、時折不意に暖かくなり、冷なる手を感じさせたり。
ある日、ひとりの男、旅の者なり。彼は道に迷い、やがて山の深き霧に包まれたり。彼の目の前に浮かび上がりしは、麗しき影、白き衣纏いし女。この女こそ、楓の生まれ変わりなりと、彼は言い覚えたり。
彼女の声、低く、しかし柔らかに、男の耳に忍び入りぬ。「ここに来たりし者よ、わが愛しき者を見付け給え。我はこの地に閉じ込められし、魂の軸なり。」男は茫然とし、言葉を失う。彼の後悔、過去を振り返る術を知らず、彼女の囁きに魅せられたり。
男は誘われしまま、手を差し伸べんとし、やがて彼女の手を掴みたり。忽ち、身体は霧の如く溶け、現世と彼岸を渡る界に漂いぬ。
かの者、もはや村に戻ること能わず。夜の帳は二度と彼を解き放たず、楓と共に冥府の門を見守る者となりにけり。伝えられしこの物語、村人の耳には常に新しき恐怖を吹込めり。彼らは夜の山に近寄らず、明けぬ夜に灯す灯火を恐れたり。
山は彼の帰還を許さず、魂の囚わるる場所となり、未練の声は永久に響き、彼の命を幽閉する巌となりにけり。楓の笑み、彼の夢に現れし幻影、終焉の時まで彼方の道案内となりにけり。村人の囁きは、霧の如く、夢幻となり、幾度か山を越えたる者すら、その影を恐る。
霧の谷、常闇の風が吹く地に至りては、全ての者に告げられし言葉あり。「夜の霊、未練の影、此世と彼世の境を踏みし者よ、二度と振り返るすなわち、帰る道途絶えり」と。
かくて、人は霊を恐れ、未練を避け、魂の安きを求めたり。しかしながら、ひそかに語り継がれしこの物語は、静かに、しかし確かに、若き命の儚さと、忿怒の魍魎を伝え続けたり。終わらぬ怨みの連鎖、明日なき希望の種、幾千の命に支えられ、いまだ終わることを知らず。
