わが魂の器、暮れなずむ陽炎の里にひっそりと佇む也。薄墨に染まりし軒下、そは常世の門なり。かくてこの物語の幕開けともなり、我れ一夜の記憶を語らん。
蒼き月影、古より続く山なみを渡りて、わだつみの風も息をひそめ候。御霊の息遣い、耳を傾けぬ者も捉えられん。されば、我が身をよするはこの里の長く衰えたる民家にござ候。我、今宵一人にてこの家に泊まる事定められし也。
夜も更けて、時の巡りも忘れ果てし中、ひとり寂然たる室内に佇み候はく、我が心の内、静まりぬ。畏怖の念、波打つごとく心を掻き立て、やがて訪れぬものの声を待つが如く、静寂のうちに在りし。
時に、我が何を聞いたるか。叢の影より囁く声、古語に似たる詠、美しきも幽かなり。声の主を思い巡らせども、姿は影に包まれり。眼を凝らせど、影は曳かれ、指先の触れるものなけれどもぞ。
「ひとなれど、帰り来ぬ…」
風揺らす言の葉は耳を包み、意を阻かんとするも、声の主を知る由もなく候。この瞬間、畏むる厳さに浸りて、我が魂は動かざるものと化せり。古き時代の怨霊の所業なれば、儀式の舞台に引き込まるるが如し。この不条理を受け入れ、宵闇の尽きるを待たん。
床の間に座し、灯り一つにて過ぎる刻を数え候。この世の者ならぬ者の影、次第に現れ出で、姿見えざるものの、在るという感、我が耳元を過ぐるは白狐のごとく、終わりなく続けられんと。
「夜を開けぬ…あな恐ろしや」
その声の弱さに不思議な魅力を見出だしつつ、我自らこの恐れに打ち勝てるかと問いしも、語りかけるは声のみ。中空に浮かぶ浮世の影、消え去ることなきも、次第に薄らぎける。
幽明の境を彷徨う心、何処へ続くともわからず、やがて我が片隅に沈みりし声も、静けさに消え入りぬ。時の巡り、暁の光差し込むに従い、我が心も重き幕の解け行く如し。
後に、人里離れしこの住まいに足を踏み入れるは、再びなく候。さても、あれは夢幻の仕業か現(うつつ)か、疑問の尽きることなくて、語り手自身の恐るる心の影は消え去ることなきものと相成りけり。
存ずる我も、かつて此処にありしひとつの影に過ぎぬやも知れぬ。一握りの糸を頼りに、この世の現し世に繋がりたる、儚き存在にて、この語りは終わり候。
これにて、我が古語りは静かに幕引きとなりぬ。かくせんけれども、心の隅に閉じ込めし恐怖、時のなせる悔いを誘う影の如く、今なお消え果てぬやも知れず。