異界の闇に触れた夜

神隠し

私は、山間の小さな村で生まれ育ちました。その村には古くから伝わる「神隠し」の噂があって、人々はそれを恐れながらもどこかで信じていました。私も子供の頃は、それがただの古い迷信だと思っていました。しかし、ある出来事をきっかけにその考えは覆りました。

それは私が高校生の時のことです。夏休みの夜、友人の忠といつも通り村の周辺を散歩していました。月が明るく、辺りを薄い青白い光が包んでいました。私たちはいつものように笑い合いながら村の境を流れる小川のほとりを歩いていました。川の水の音が心地良く、夜の静けさにとてもよく調和していました。

そのとき、忠が急に立ち止まりました。「おい、あれ見ろよ」と彼が指さしたのは、川沿いに続く古びた木の橋の手前にある小道でした。普段は人気がなく、近寄る人もいない場所です。何かに惹かれるように、私たちはその小道に足を踏み入れました。何か特別なものを見つけたいという淡い期待が、気づけば胸の中で膨らんでいました。

道を進むにつれ、空気がどこか重たく、肌にまとわりつくような感覚がしました。風はぴたりと止み、周囲は不自然なほどの静寂に包まれていました。忠が「何だか変な感じがするな」と囁いたのを覚えています。私もうなずき、少し不安になりましたが、引き返すのもかえって怖く、私たちはそのまま奥へと足を進めました。

異変が起きたのは、その直後でした。突然、忠が私の横から消えたのです。まるで、濃い霧の中に飲み込まれるように、彼の姿がぼんやりと消えていきました。「忠!どこだ!」と叫びましたが、返事はありません。ただ、森の奥から不気味な風の音が聞こえるばかり。恐怖で足がすくみ、その場を動けなくなってしまいました。

どれだけの時間が経ったか分かりません。ただ呆然と立ち尽くす私の前に、忠が再び現れたのです。彼は何事もなかったかのように私を見つめ、微笑みました。ただ、その目にはどこか違和感がありました。何が変わったのか言葉ではうまく表現できないのですが、確かに忠には何かが違っていました。

帰り道、忠はいつものように冗談を言い合い、笑っていましたが、私は不安でその笑顔にどうしてもなじめない感覚がついて回りました。そしてその夜、悪夢を見ました。夢の中で私はどこか知らない場所にいて、そこにいたのは忠ではありませんでした。彼の姿をした別の「何か」で、私を深淵の闇へと引きずり込もうとしていました。

翌日から、村の雰囲気は変わり始めました。忠は普段と変わらず振る舞っていたのに、村の大人たちは彼をどこか避けるようになり、時折不気味な噂が聞こえてくるようになりました。「忠はもう、あの忠じゃない」と。それは私の中の不安とも一致し、次第に私は忠と距離を置くようになってしまいました。

時間が経つにつれ、私の中で確信に変わっていきました。あの夜、確かに忠は消え、そして戻ってきたのは彼ではなく「違う何か」だったと。村の神話は現実となり、彼は異界に連れ去られてしまったのだと。

数年後、私は村を離れました。新しい街の生活に慣れようとする中で、あの夜の出来事と忠のことは意識の奥に追いやっていましたが、ふとした瞬間に蘇ることがあります。例えば、夜の静寂や風の音を聞くと、忠のあの目と笑顔が脳裏によぎるのです。

町を歩いていて、何の前触れもなく似たような体験をしてしまった人の話を耳にしました。その時、私は改めて自身の体験が単なる悪夢ではなく、本当にあった出来事であることを再確認しました。

今でもあの村では、誰かが異界に引き込まれてしまうという神隠しの話が伝え続けられています。つい最近も、誰かが失踪したという噂を聞きました。もしかしたら、それが忠とは別の「何か」が次の獲物を求めているのかもしれないと、不安にならざるを得ません。

もしもあなたが山奥の村を訪れることがあれば、その場所に近づかない方がいい。人知を超えた「何か」が未だにそこに潜んでいるかもしれないのですから。そして、あなたの隣にいる友人が、本当にそのままの彼であるのか、よく注意した方がいいでしょう。私はもう誰を信じていいのか分からないのです。あの夜が、私に現実とは何かを問い続けさせるからです。

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