満月の夜の神隠し伝説

神隠し

高齢の土屋夫妻の暮らす辺鄙な村には、奇妙な噂が流れていた。この村では、満月の晩になると、森の奥から響く不思議な音に誘われ、人々が次々と姿を消すという。失踪者たちは数日後に元の場所で発見されるのだが、彼らの様子はどこか異質で、かつての無邪気な笑顔は消え失せ、影のように沈鬱な空気を漂わせていた。

その村に暮らす優しい青年、圭介は近所の老人たちからこの話を聞かされ、興味と恐怖を同時に抱いていた。彼の幼い頃の記憶には、友人の一人がまさにその神隠しに遭い、戻ったときには全く異なる人間のようで、以後、村を後にしたという体験があった。あの満月の夜から何かがずれてしまったのだと圭介はいつも心のどこかで感じていた。

その不安感は、ある晩、決定的な事件へと展開する。満月の夜、圭介は一人で散歩に出かけた。夜気はひんやりと肌に冷たく、月光が地面に歪な影を作り出していた。ふと、森の奥から不思議な旋律が彼の耳に流れ込み、自然と体はその音に引き寄せられていった。

森の中は異界の入り口のようだった。風はなく、木々は不動のまま圭介を見下ろしていた。森は静寂と不可思議な音を混ぜ合わせた奇妙な空間であった。圭介の心臓は鼓動を刻むたびに、その音をかき消すかのようだった。既に彼は恐怖に支配されていたが、その音楽がかき立てる何かが彼をさらに奥へと誘った。

突然、それは止まった。音の波が途切れると同時に、耳鳴りだけが響き渡る。圭介は慌てて振り返るが、そこには何もなかった。彼は自分の足元を確かめ、再び正面を見つめた。森の奥底から僅かに光が漏れているように見える。好奇心が恐怖を上回り、彼はその光に向かって歩き出した。

その瞬間、世界が暗転した。空気がねじ曲がるように閉ざされ、圭介は視界を失った。彼は呼吸を止め、凍りつくような恐怖に支配された。どれほどの時間が過ぎただろうか。彼が意識を取り戻した時、見覚えのある天井が視界に入った。彼は村の診療所のベッドの上に横たわっていた。

「気がついたか?」

隣に座る中村医師が穏やかな微笑を浮かべている。しかし、その笑顔の背後に違和感を覚えた。圭介は無言で頷き、周囲を見渡す。診療所の窓から外を覗くと、そこには見慣れた村の風景が広がっていたが、心の底に奇妙な違和感がこびりついていた。

「おかしいな……こんな場所だったか?」

圭介は自問した。しかし記憶が曖昧で何が違うのかはっきりとは分からなかった。ただ、そこにはかつての村の輝きが失われたかのように感じられた。

次の日、村を歩くと誰もが彼に微笑む。しかし、その微笑の奥に隠された陰影が彼を苛む。何かが、確実に変わってしまっているのだ。再び語られる神隠しの噂。帰ってきた者たちの奇妙な振る舞い。彼自身もその一員となったのか。

その夜、圭介は再び夢を見た。深い森、歌うような旋律、漆黒の中の光。それは彼に決して消せない印象を残し、彼の魂をしっかりと掴んでいた。

ある日、村の噂話を避けるように、彼は再び森に向かった。仲間から隠れるかのように、満月の夜になるたびに彼は森を訪れるようになった。そこには見えない力が彼を呼び寄せているようだった。

そして数か月後、一度は村に戻ったにもかかわらず、圭介は再び姿を消した。村人たちは彼が再度「神隠し」に遭ったのだと囁くが、圭介にとっては、それが本当の意味での「帰還」であるように感じられるものだった。

村人たちは彼の帰還を待ち続けたが、それは二度となかった。そして、圭介の不在を起点として、村の様子は少しずつ狂い始めた。何かが歪み、かつての面影を失っていった。それはまるで森に呼ばれた者の影が村に残るかのように、不気味な後味を村に漂わせ続けた。

村人たちは満月のたびに怯えるように空を見上げ、雑音が混じる旋律に耳を塞ぐ。圭介の失踪が何をもたらしたのかは誰も確信を持てず、ただその心にしこった不安だけが残された。村は消せない痕跡を刻み続け、異界の影に囚われたままであった。この神隠しの伝説は、今でも静かに語り継がれている。

タイトルとURLをコピーしました