私の友人のA子が、ある恐ろしい体験をしたらしい。A子とは大学時代からの付き合いなのだが、彼女がある夏の終わり、古びた実家に帰省したときの話だ。
A子の実家は、古くから伝わる一軒家で、大きな屋敷とは言い難いが、庭付きで蔵もある、いわゆる「旧家」というやつだ。彼女の両親は、都市部に住んでいるのだが、年に数回、祖父母が住むこの家を訪れるのだという。
その日、A子は両親の付き添いで久しぶりにこの実家に足を運んだ。祖父母の家は古いが、どこか落ち着く雰囲気があり、彼女も幼少期はよく遊んだ場所だった。家に着いた際、A子はふと、学生時代の友人と交わした怖い話を思い出した。
「この世のどこかには、人を食べる家がある」という噂だ。その家は一見普通なのだが、いつの間にかその住人を取り込んでしまうという。そして気づいた時には、もう家の一部と化しているのだ。A子はその話を思い出しながら、微かに胸騒ぎを覚えたという。
到着した日の夜、A子は妙な感覚に襲われた。普段なら何も感じないはずの家の廊下を歩くと、その度になぜか足音が一つ多く聞こえるのだ。振り返っても誰もおらず、寝ぼけているだけだとその夜は気にしないようにした。しかしそれは、次の日に更なる不気味な出来事へと進化していく。
翌日、家族全員で祖父母のために掃除をすることになった。A子は蔵の掃除を任されたのだが、その蔵の古い扉を開けた時、何かが狂い始めたのだ。
蔵の中には、長い間誰も手をつけていないような古びた家具や道具が詰まっていた。そして、薄暗い奥の方に一つの古い姿見が立て掛けられていた。A子はその鏡の存在に気づくと、なぜか目を離せなくなってしまった。仕方なくゆっくりと近づいていくと、その鏡にはおぞましいほどにくっきりと自分の姿が映し出されていた。
ところが、A子がその鏡をのぞき込むと、確かに自分なのだが、どこか違和感がある。映っている自分の顔が、何か隠そうとしているかのように微笑んでいたのだ。不自然な笑みを浮かべる自分に、思わず背筋が凍った。
その夜、A子は食事をとった後、疲れて早めに床についた。だが、眠りにつくことができず、じっと部屋の天井を見上げていた。すると、突如、部屋の中に誰かいるような感触を感じたのだ。音もなくドアが少し開き、床を這うような音が聞こえ始めた。
A子は布団をぎゅっと握りしめて、目を閉じた。何かが自分のすぐそばまで近づいてくる気配がした。そしてその瞬間、またあの不気味な笑みが頭をよぎった。あの鏡に映る自分と同じ笑みを、目に見えない影が浮かべている気がしてならなかった。
翌朝、A子は恐る恐る起き上がり、全身に冷たい汗を感じたが、何事もなかったかのように祖父母や両親が普段通りの朝を迎えているのを見て、安心した。だが、その安堵もつかの間、A子は朝食の後、再び不安な気持ちに包まれる出来事に遭遇することになる。
祖父母が何気なく話していたことによれば、この家には昔からやはり何かがおかしいという噂があったらしい。時折、不思議な物音が聞こえたり、何もない場所で誰かに見られているような感覚を味わったことがあるという。A子はその話を聞き、背筋が急に寒くなった。
恐怖が増す中、A子は自分が鏡で見た不気味な笑みのことを誰にも話せずにいた。しかし、その日の午後、再び蔵に行ってみたい衝動に駆られた。無意識に、あの鏡に真実を確かめたい気持ちになっていたのだ。
蔵の中は相変わらず薄暗く、静まり返っていた。A子はもう一度鏡に近づき、慎重にその表面を見つめてみた。しかし、今度は自分の姿はない。ただ、曇った鏡面に誰かの手形がいくつも付いていたのだ。まるで、中から何かが助けを求めているかのようだった。
その瞬間、A子は目の前の景色がぐにゃりと歪むのを感じた。頭の中で不気味な笑い声が響き渡り、意識が遠のいていく。次に目を覚ました時、家族が心配そうに自分を囲んでいた。どうやら、彼女は蔵で気を失って倒れていたらしい。
それ以来、A子はその実家に行くことをやめたと言っていた。何かこの世ならざる存在が、あの家には住み着いているかもしれない。もしかしたら彼女だけがそれを感じ取ってしまったのかもしれない。
あの不気味な笑みが彼女の心から消えることはなかった。そして、あの鏡に向かって無理に笑おうとする自分の姿も、もう一度見る日は来ないだろうと言った。A子の話の最後に残された言葉は、私の心に深い恐怖を刻みつけていった。誰の身にも起こり得る、そんな怪異が日常のすぐ側に潜んでいるかもしれないと思うと、夜、一人で鏡をのぞくのが怖くなった。