山奥にひっそりと佇むその村は、いつの頃からか風化した地図にも載らなくなっていた。人々がそこを訪れるのは、もはや決意を持つ者に限られていた。だが、その静寂は繊細な絹を破るように崩れ去り、村中に広がる疫病の噂が人々の心に染み込んだ。
それはある風の強い日のことだった。村の中心に位置する唯一の診療所に、一人の男がヨロヨロと入り込んできた。彼の目は焦点を持たず、顔面は青ざめ、小刻みに震えている。村の医師である藤田は、すぐに彼を診察台に寝かせ、脈を取った。しかし、その瞬間、彼は生気を取り戻したかのように目を見開き、異様な笑みを浮かべた。「なあ、聞いてくれ。死者が…帰ってくるとか」
藤田は何を言っているのか理解できなかった。けれども、その不吉なつぶやきは村全体にじわじわと浸透し始めた。男が死んで三日後、村の片隅でその遺体が発見されたとき、平和な村は悪夢のような現実に直面した。
男の遺体は、その死を嘲笑するかの如く歩き出し、まるで何事もなかったかのように周りを見渡していた。村人たちの恐怖は最高潮に達し、家々には鍵がかけられ、広場には人々の姿が消えた。藤田は、この現象が疫病の初期症状に過ぎないことを直感し、症状が広がる前に封じ込める必要性を痛感した。
彼は村の図書館で古書を漁り、似たような過去の事例を探し始める。過去の医学書には、幾つかのウイルスが死者を蘇らせ、人々を感染させる可能性について仄めかされていた。「イタリアの村で、一度…」などという走り書きが見つかったが、曖昧な情報ばかりだ。藤田の脳裏に一つの仮説が浮かぶ。それは死者が蘇ることに対する、何世代も前から受け継がれてきた恐怖の記憶が、未知のウイルスによって具現化されたものではないのかということ。
彼は診療所に戻り、すべての医療用具を総動員して原因究明に当たった。しかし、時間との戦いだった。村の外れでは、奇妙な現象がまたひとつ、またひとつと花開くように現れ、感染者の数も次第に増えていった。多くの村人が幽鬼の如く徘徊し、意識を失ってまた蘇りを繰り返した。
その夜、藤田は一人の女性感染者を診察していた。彼女は診療所の薄暗い室内で静かに横たわり、時折目を開けては意味不明な言葉を呟いていた。「闇が…来る…」と彼女は言ったかと思うと、手を伸ばし、藤田の顔に触れた。その手が冷たかったことを、彼は一生忘れることはできなかった。
藤田は、村の外へ通信を試みることに決めた。外界との接触が途絶えて久しいこの村を救うには、外部の助けが必要だ。しかし、すべての接続は断たれ、唯一の道は険しい山を越えることだけだった。彼は村の若者たちと共に脱出計画を立てた。これ以上の被害を防ぐため、彼らは徒歩で山を越え、隣村へとたどり着くことを目指した。
準備は整い、藤田を先頭に数人の若者が深夜の森へと足を進めた。月明かりが影を描き、風が背後の木々をすり抜ける音が心をざわつかせる。夜間の山道は、まるでこの世のものではない何かを見るようで、彼らの不安をあおった。
しかし、彼らが山を越えようとしたその時、背後から聞き慣れない声が彼らを呼び止めた。「待て!」振り返った彼らの視界に現れたのは、幾人かの村人たちが、虚ろな目で彼らを見つめている光景だった。それはまるで、疫病そのものが彼らを見張っているかのような感じだった。
彼らが村の外れを急ごうと再び歩き出した瞬間、感染者たちは猛烈な勢いで襲いかかってきた。藤田はすぐさま若者たちに指示を出し、斜面を駆け上がった。背後から叫び声と共に追ってくる影に恐怖しながらも、彼らは一丸となって出口を目指した。
それでも、その追跡はすぐに手を緩めなかった。感染者たちは執拗に、影のようにぴたりと追いすがってくる。時間が経つにつれ、藤田たちの足は重くなり、体力は限界に達しようとしていた。
その時、小さな開け地が現れた。藤田はここで一度立ち止まることにし、最後の力を振り絞って感染者たちと対峙することを決意した。「皆、ここで決着をつけるぞ」と声を投げかけ、若者たちに村を救うための覚悟を持たせた。
彼らはあり合わせの道具を手に、感染者たちと対峙した。月明かりに照らされたその場所での戦いは、凄惨で恐ろしく、そして深い恐怖を伴うものだった。ひとたび立ち止まった以上、後戻りすることはできない。彼らはすべてを賭して戦った。
藤田は一人の感染者に向き合う。彼もまた、かつてはこの村で生活していた人間だった。感染者の手を交わし、避けながら、藤田は自分の思考を巡らせていた。誰がどこで感染したのか、一体何がこのウイルスを根ざさせたのか。答えはまだ見えなかった。
若者たちは仲間の犠牲を払いながらも、何とか感染者たちを振り切り、開け地を突破した。夜明けは近いのだった。幾重にも繰り返される感染と死の悪夢を、いつかは終焉とするために、彼らは山を越えることに成功した。
それから数週間後、国の防疫隊が村を訪れたときには、村に残されたものは蝋のようにしおれた遺構だけだった。藤田たちは、山を越えた先の避難所でこの現状を伝え、新たな生活を模索していた。
この不思議な疫病の記録は、やがて忘れ去られる運命にあったが、村の片隅で起こった忌まわしき出来事は、ただ一人だけがその記憶を抱き続けるのだった。藤田は心のどこかで思っていた。村を救うことはできなかったが、そのことを決して忘れないと。何かが彼に語りかけていたかのように、彼はその思いを胸に刻みつけ、再び医師としての道へと歩みを進める決意をしたのである。