神隠しの村

神隠し

静かな山間の村、そこには昔から「神隠し」の伝説が語り継がれていた。何もない、と言ってもいいくらいのこの小さな村は、四方をうっそうたる森に囲まれ、長い年月の間に訪れる者も減り、村自体が忘れ去られたような存在であった。

夏の終わり、静けさに満ちたある夜のことだった。満月の光が冴え冴えと畑や木々を照らす中、一人の青年がふらりと村はずれの神社へ向かっていた。彼の名前は健太。数年前、都会からこの村へ引っ越してきたのだが、村人たちとはあまり馴染んでいなかった。そんな彼が、いかにもいわくありげな神社へと向かっていた理由はただ一つ、「神隠しのうわさ」を確かめるためである。

村に伝わる神社は、山の中腹にひっそりと佇んでいる。草が生い茂った参道を進むと、小さな鳥居をくぐり抜け、朽ちた社殿が姿を現す。長い間、手入れもされず放置された神社だが、奇妙なことに、そこだけは薄気味悪いほどに清浄な空気が漂っている。

健太は、神社の縁側に腰掛け、辺り一面を見渡した。風が木々を撫でていく音が耳に心地よい。しかし、月光に照らされた周囲の景色には、名状しがたい不気味さがあった。人の気配はなく、ただ時間が止まったかのような静寂が支配している。健太はカバンからペンスケッチブックを取り出し、月明かりを頼りに描き始めた。

「月夜の神社、か。思ったより幻想的だな」健太は独り言を漏らしながら線を引く。

だが、ふと気付くと、空気が変わっていた。いつの間にか風がぴたりと止み、息をすることすらはばかられるような静寂が辺りを包んでいた。不意に背後から、何者かの視線を感じて、健太は振り向いた。しかしそこには誰もいない。いや、確かに何かがいる。健太は、背筋に嫌な寒気を覚えながら辺りを見回した。

そして、それが聞こえた。誰もいるはずのない神社に、小さな足音が響いている。健太はその音のする方へ目を凝らした。しかし、霧のように視界を阻む暗闇が、何もかも飲み込んでいた。「誰かいるのか?」彼は呼びかけてみたが、返事はない。ただ、足音だけが近づいてくる。そして、何か冷たいものが、じっとりと彼の肩を掴んだような気がした。

怖気が走り、健太はその場から逃げ出した。彼の背後で、何かが微かに嗤っているような錯覚を覚えたが、振り返る勇気はなかった。一心に走り抜け、やっとの思いで村に戻ったときには、体中が汗で濡れていた。

その翌朝、健太は目を覚ますと、いつもと変わりない村の風景が広がっていた。しかし、どこか異様な違和感を感じた。「何かがおかしい」と彼の本能が警告している。彼は昨日のことを思い出し、あの得体の知れない体験が現実のものだったのか確信が持てなかった。

それでも日常は続く。近所の老人たちが集まる村の集会場で、その奇妙な出来事を話してみると、「それは神隠しだな」と誰もが頷く。村では、昔からある種の儀式を通じて邪悪な力を封じ込めてきたという。しかし、世代を経るにつれ、それを知る者も少なくなり、今では形骸化してしまった。

「神隠しに遭ったら、次の日までは決して外を出歩くな…」老人の一人が警告するようにぼそりと呟いた。

しかし、健太の気持ちは晴れない。何かしらの探求心と恐れが入り混じった感情が彼を動かし、再び神社へ向かわせた。今度こそ、その謎を解き明かしてみせる、と。

満月の夜、再び神社へたどり着くと、そこには奇妙な変化があった。以前は朽ち果てた社殿が、今や灯篭に火が灯り、祭壇には生花が供えられている。そして、不意に現れる風が彼の頬を撫でた。その冷たさが、まるで異界への誘いであるかのように感じられる。

突如、視界が真っ白に染まり、健太の意識は遠のいた。彼が次に目を覚ましたとき、見知らぬ風景が広がっていた。空は紫色に染まり、巻きつくような奇妙な樹木が立ち並んでいる。ただ彼を迎えたのは、見覚えのあるはずのない、異世界の様相だった。

不意にどこからか、あの笑い声がまた響いてくる。健太はその笑い声を頼りに、足を進めた。どうやら、この道を進めば、ここから抜け出せるというように誘っている気がしたからだ。

やがて、彼は元の場所に戻ってきた。しかし、何かが違っている。村は彼が知っているもののようで、どこか違和感がつきまとう。そして、人々の目がどこか空虚で、彼に向けられる視線には魂がないように感じられる。まるで彼ら全てが彼の知らない何かを知っているかのような、そんな怪しさが漂っている。

その日から、健太は人知れず村を離れることを決意した。必ずしも恐怖ではなく、それが自分の最後の選択肢だと感じたからだ。そして、村を去る前に神社へ向かい、最後の一瞥をくれた。

そこに待ち受けていたのは、神社の縁側で微かに微笑む彼自身だった。彼自身が、彼を見据えて微笑み、一切言葉を交わすことなく消えていった。きっと、本当の意味での「神隠し」は、こうして完了するのだろう。

彼が再び元の世界へ戻ることはなかった。村から去った健太が、村を訪れることもなかった。ただ、彼の記憶の片隅に焼きついたあの夜、その異界での光景だけが、彼の孤独な新生活を永遠に影響し続けたのだ。彼はどこか別の土地で新しい人生を始めたが、それは決して彼が望んだものではなかったと、どこかで確信しているのだった。

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