山里にひっそりと佇むその神社は、長い間訪れる者もなく、深い緑に包まれていた。その神社には、地元の人々の間で「触れてはならない」という静かなる禁忌が存在していた。古い石段を登るたびに、微かに苔むした鳥居が姿を現す。周囲の木々が囁き合うように風に揺れ、まるでその場に足を踏み入れることを拒むかのようだ。
吉村という男がいた。彼は都会の忙しさに疲れ果て、この山里に休暇を兼ねて訪れていた。彼はこの地方の神秘的な伝承に興味を持ち、その神社の存在を聞いたとき、強烈な好奇心を抑えきれずにいた。地元の宿に泊まり込み、夜になると他の客や宿の主人に話を聞き出すことにした。
「誰も行きたがらないあの場所に、何かあるのでしょうか?」と吉村は恐る恐る尋ねた。
宿の老人は、口元を引き締め、少し考えてから口を開いた。「あそこには、かつて神の怒りを買った者たちが封じられていると言われる…。人々は少しずつあそこを避けるようになり、いつしか誰も近寄らぬ場所になったんじゃ。」
その言葉に吉村の興味はさらに募った。次の日、彼は早朝のうちにその神社を訪れることにした。真っ白な霧が山を覆い、冷たい空気が張り詰める中、石段を一歩一歩踏みしめていく。彼の後ろには、誰もいないはずなのに、微かに忍び寄る気配を感じた。しかし、振り返ってもそこにはただ、無言の木々がその場に揺れているだけだった。
社殿が見えてくるにつれ、何か不自然なものがあることに気付いた。朽ちかけた木々の背後に、今にも消え去りそうな古い祠が存在感を発していた。鳥居の先には苔むした狛犬が二体、かすかな威圧を放ちながら、訪れる者を睨んでいるかのようだった。
吉村は社殿の扉に手を伸ばしたが、手のひらが触れる前に、ひどく冷たい空気が指先を包み込んだ。それは人のものではない感触で、彼の胸に一瞬恐怖心が芽生えた。だが、好奇心のほうが勝り、彼はさらに扉を開けようと試みた。その時、かすかな声が彼の耳に届いた。
「触れてはならぬ…。」
その声は神社の奥深くから湧き上がるかのようで、風に乗って彼の心情を掻き立てた。彼は一瞬立ち止まったが、決心を揺るがすことはなかった。社殿の扉をついに押し開けると、中には暗闇が広がり、古い香の匂いが漂っていた。そこには二体の石像が鎮座し、どこか安らぎと威圧を同時に感じさせる何かがあった。
その瞬間、吉村は足元から這い上がるような感覚に襲われた。それはまるで、見えない何かが自らの存在を示そうと手を伸ばしてくるような、確かなものだった。彼の背筋を冷たい汗が流れ、心臓は不規則に高鳴り始めた。彼は急に足元がおぼつかなくなり、一歩後退った。
その時、再びあの声が、しかし今度ははっきりと聞こえた。「触れてはならぬ…、禁を犯す者には災いが降りかかる…。」
恐怖がピークに達した吉村は、無我夢中で社殿を飛び出し、石段を駆け下りた。その途中、木々の合間をすり抜ける風が、彼の呼気に合わせてひゅうひゅうと音を立てた。彼の脳裏にはなおもあの声がこだましていた。何かが彼を追いかけているような錯覚に、吉村は慌てて振り返ったが、そこには何もいなかった。
宿に戻った吉村は、その晩、度々夢に魘されることになった。彼は闇の中で自らの意志とは無関係に神社へと導かれる夢を見た。声が途切れずに耳に残る。目を開けるたびに、どこからともなく湧き上がる不安感が胸を締め付けた。
翌朝、彼は地元の住民にあの神社について再度話を聞いてみることにした。村の者たちは皆、吉村が神社へ行ったことを聞き、ひどく憂慮した様子だった。「やはり触れてはならぬ場所だったのじゃ」と、ある老婆は悲しげに呟いた。そしてそのまなざしは何かを悟っているようでもあり、吉村を怖がらせるには十分だった。
帰宅後、吉村は日常に戻ろうとするが、その恐怖と不安は彼の日常生活に潜り込み、心の隅を覆い尽くした。そしてある晩、西の空が不気味に赤く染まる夢を見た。その夢では、彼は再びあの神社の前に立っていた。
ふと目を覚まし、汗に濡れた手で顔を撫でる。彼の体温は低く、心ここにあらずといった具合だった。そして、彼は理解した。あの神社で何かを目覚めさせてしまったのだと。彼が禁忌を犯した瞬間から、彼の世界は何か計り知れないものに包囲されていた。
日々が過ぎ、吉村の精神状態は次第に追い詰められていった。彼は周囲の助言に耳を貸そうともせず、自らの内に蠢く不安と対峙し続けていた。そして、彼は静かに決意した。再度あの神社を訪れ、何が間違っていたのかを確かめることを。
再びその地を訪れた吉村は、最初に感じたのと同じように霧に包まれ、木々の合間を歩いた。今度は恐怖心に囚われることなく、冷静に神社の前に立った。耳を澄ますと、あの日のような声はもう聞こえてこない。恐れを知らぬ姿勢で社殿の扉を再び開き、中へと足を踏み入れた。
彼は静かに石像の前に立ち、そこで目を閉じた。少しずつ、恐れが消え去り、不思議な取り戻した安堵感が心を満たした。その瞬間、彼は自らが抱えていた不安が、別の形でその地に安らぎを得たことを感じ取ったのだった。
吉村がその場を離れると、再び森の静寂が戻り、風は穏やかに鳴っていた。その後、神社は再び人々の記憶から消え、禁忌としての静かな存在を保ち続けた。ただ、吉村の心には、あの霊場での出来事が鮮やかに刻まれていた。そして彼は、訪れぬ者への暗黙の畏れを抱きながら、静かにその地を去ったのだった。