彼女の名は、楓だった。都会の喧騒からほど遠い小さなマンションに一人で暮らす彼女は、静かな夜を愛していた。彼女にとって、インターネットは外の広い世界と唯一繋がる手段だった。特に、写真共有SNSが彼女の趣味であり、日々の些細な出来事や自分の気持ちを一枚の写真と短い言葉に込めて、世界に発信していた。
ある夜、楓はいつものように寝る前にスマートフォンを手に取り、SNSをチェックした。彼女の投稿にはたくさんの「いいね」とコメントが寄せられており、見知らぬ誰かからの温かい反応が心地よかった。ふと、彼女の目に留まったのは、名もない新しいフォロワーからのメッセージだった。
「あなたの写真が好きです。特に夜の景色が素敵ですね。」
匿名のアカウントからのメッセージは特に珍しいことではなかったが、どこか引っかかるものを感じた。彼女の写真は日中がほとんどであり、夜の風景など投稿した記憶がない。しかし、新しいフォロワーはすぐに彼女の投稿に「いいね」を付け始め、時折コメントも残していった。その内容には、彼女がその日着ていた服の色や、窓から見える景色までもが詳しく言及されていた。楓は徐々に気味悪さを感じ始めた。
疑念が確信に変わり始めたのは、その翌週のことだった。夜遅くに帰宅した彼女がエレベーターを待っていると、ふとした気配に気づいた。誰かが背後から彼女をじっと見つめているような感覚。しかし振り返っても誰もいない。ただ、エレベーターのドアが開く際に、ふっと影が視界の端を横切ったように思えた。それは、彼女が抱いていた不安を現実のものとするための序章だった。
彼女はインターネットで「ネットストーカー」について調べ始めた。自律性を奪われる恐怖の中で、彼女は SNSの設定を見直し、よりプライバシーを重視する方向へと変更した。しかし、その逆効果なのか、今度はさりげないリアルな接近をしてきているように思えた。通学路では見知らぬ車がゆっくりと彼女の後をついてくることがあり、その不気味な状況に彼女はただ足早にその場を離れることしかできなかった。
ある日、彼女の恐れは決定的な形を取った。帰宅すると、机の上に見覚えのない写真が一枚置かれていた。それは、彼女が自室の窓際に佇む姿を、まるで油断した瞬間を狙われたかのように捉えたものだった。窓の外から、まるで彼女を監視する誰かが存在するかのように。どうしてこんな写真がここにあるのか、彼女には理解できなかった。
彼女は警察に相談しようと考えたが、果たして具体的な証拠があるのかと自問すると、その足は重くなり結局動かなかった。とはいえ、日常の泣き寝入り状態に戻ることは到底できなかった。楓はしばらくの間、他人の目を避けるようにして生活を送ることを決めた。SNSへの投稿は休止し、必要最低限の外出に留め、なるべく家の中での安全を確保しようと努めた。
しかし、その夜、彼女の元に再び連絡があった。「毎晩、窓から君が見えるよ。」という短いメッセージが届いたのだ。凍りつくような恐怖が、彼女の体を駆け巡った。すぐさまカーテンを閉めきり、家中の鍵を確認した。しかし、そのとき、彼女の背後からかすかな足音が聞こえてきた。
振り返ると、そこには一切存在しないはずの何者かが立っていたのだ。影が彼女の視界に広がり、その正体を確認するよりも先に、彼女の意識は薄れ、闇に包まれていった。
次に目を覚ましたとき、彼女は病院のベッドにいた。どこかホッとしたものの、彼女の心には再び不快感が芽生えた。「これで終わったのだろうか？」と。しかし、彼女の疑念は払拭されることはなかった。
退院後、彼女は心を落ち着けるために田舎の家族のもとへと向かった。しかし、その静かな安らぎの中でも、どこか彼女の心は落ち着けなかった。「あの影はまだ私を見ているのではないか？」と。
そして、何気ないある日、家の庭で咲く花の香りを楽しんでいると、一台の車が家の前で停まるのが窓から見えた。その車の持ち主が、ゆっくりと門を開ける様を彼女は息を呑みながら見守った。
それはかつて見た覚えのある車だった。心臓が大きく鼓動する中、彼女は逃げ去ろうとした。しかし、足を踏み出すその先には、彼女の悪夢の現実が手を伸ばして待っていた。
「やっと会えたね。」
静寂を破るその声が、かつてのネットストーカーのものだと理解した時、楓の世界は再び暗転した。その後の記憶は朧気で、彼女は再び目を開けた時、その悪夢が終わったのか始まったのかすらも分からないまま、ただ一面の白い天井を見上げていた。彼女を取り巻く現実の不安は、もう夢物語ではなくなっていたのだ。
