黄泉の社の囁きと狐の影

霊場

静寂に包まれた山奥に、ひっそりと佇む神社があった。地元の人々はその場所を「黄泉の社」と呼び、あそこに近づいてはならないという、古くからの言い伝えを守り続けていた。

ある晩、好奇心旺盛な青年、良太がその禁忌を破ることを決心した。彼は都市からこの村へ移り住んできたばかりで、この地方の言い伝えに対する理解も浅かった。神社の話を聞くたびに、何かに引き寄せられるような感覚に襲われ、その誘いを拒むことができなかったのだ。

黄泉の社に到着すると、月明かりだけが境内を薄く照らし出し、闇夜に浸る木々の間を冷たい風が通り過ぎていく。鳥居をくぐり、本殿に続く細い石畳の道を進む良太の耳には、自分の足音と風の音だけが響いていた。空気は張り詰め、静寂が重苦しい雰囲気を醸し出している。だが、その静寂を破るものが、ほどなくして現れた。

何かが背後から聞こえてくる。それは懐かしいような、けれど言い知れぬ不安を伴う囁き声であった。振り返るが、そこには誰もいない。ただ冷たく沈黙を守る闇が広がっているだけだ。それでも確かに声は続く。耳の奥に直接響いてくるような感覚に良太は混乱した。心の底で警鐘が鳴り響くが、その時すでに彼の好奇心は後戻りできぬほど膨れ上がっていた。

本殿の前に立つと、声は一層大きくなり、耳障りな不協和音となって良太を取り囲んだ。彼は一瞬、頭を抱えてその場にうずくまるが、次の瞬間にはその幻影に抗うように本殿の扉に手をかけていた。扉には重い結界のようなものを感じたが、しかしそれは彼の手にあまりにもすんなりと動いてしまった。

内部は黒々とした闇に包まれていたが、かすかに漂う線香の匂いが良太の鼻をくすぐった。この場に足を踏み入れたことを後悔し始めながらも、彼の好奇心はまだ彼を引っ張っていく。奥へと進む彼の足元に、いつの間にか無数の手形が浮き上がっている。それらは彼を歓迎しているのか、あるいは警告しているのか、無表情にその存在を主張していた。

やがて、彼の目の前に一体の御神体が浮かび上がってきた。それは石でできた古びた像であり、不気味な表情を浮かべた狐の形をしていた。どこか悲しげなその目に見つめられ、良太は瞬間的に石像と視線を交わす。それと同時に、彼の頭の中には激しい激痛が走り、彼はその場に崩れ落ちた。

意識を取り戻すと、良太は無音の世界にいた。時間が停止してしまったかのような錯覚に陥りながら、彼は重いまぶたを開けた。すると、彼の目の前には無数の人々の姿が、まるで蜃気楼のように揺らいでいることに気づいた。それらはこの世の人々ではないことが直感に訴えかける。そして彼らの顔には、どれもこれも狐の瞬く面がかかっていた。

彼らは口々に呟き、やがて不安定な声のハーモニーを成す。それはあの囁き声と同じ音色であり、良太を再び現実の感覚へと引き戻した。彼は恐怖に駆られ、無我夢中で逃げ出した。背後からは笑い声にも似た囁き声が追いかけてくる。

神社を出ると、彼は一目散に山を駆け下りた。暗闇の中で転び、木の根に引っかかりながらも、ただ本能の赴くままに走った。その時、彼の中で何かが変わってしまったことに気づいていた。それでも彼は止まることを知らず、ただ遠くなる社の囁きを振り払うように山を下っていった。

村へ戻った時、夜はすでに明け始めていた。良太は息も荒く、村の人々にその体験を話そうとしたが、誰もが彼の訴えに耳を貸そうとはしなかった。ただ一人、里の老人が彼に近づき、静かに言った。「見たのだろう、狐様の夢を。社を侵してしまった者に与えられる報いだよ。」

それからというもの、良太は常に狐の面影を感じるようになった。街中でも、家の中でも、彼の周囲には狐の影が纏わりついて離れない。ついには彼自身もその影の一部と化してしまったかのような感覚に陥り、人々から距離を置かれるようになった。

そしてある日、良太は忽然と姿を消した。誰も彼を見た者はいなかったが、一つだけ奇妙なことがあった。彼の部屋には、狐の面が一つ、どことなく悲しげに置かれていたという。

その後も黄泉の社へ行く者はなく、ただ、山の中を歩くたびに、誰もいないはずの境内から囁き声が聞こえると噂されるようになった。村は再び静寂に包まれ、永遠に続く禁忌が守られていく。だが良太の話は、今もひそやかに人々の間で語り継がれ、黄泉の社への恐れを深めていくのであった。

物語はここで幕を下ろす。触れてはならない領域へと踏み入った彼の行く末を、人々は決して忘れえぬ。誰も彼もが心の片隅で思う、あの社には、誰しもが望まぬ顕れた世界が存在するのだと。

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