霧が立ち込める山々に囲まれた、ある古びた村があった。その村は地図にも載っていないほどの小さな集落で、訪れる人はほとんどいなかった。時折、山を訪れるハイカーが迷い込む程度で、その村人たちは外界との接触を極力避けて生活していた。
そんな風習を知らずに、ある若い写真家の青年がその村を訪れた。彼の名は京太郎と言い、都会の喧騒を離れ、田舎の風景を撮影する旅に出ていた。旅の途中で聞いた「霧深き山の村」のうわさが、冒険心をくすぐったのだ。
京太郎が村に足を踏み入れた時、日が沈みかけていた。村は冷たい霧に包まれ、ほの暗い夕暮れが辺りを支配していた。古びた木造の家々が並び立ち、どの家も扉や窓がしっかりと閉ざされている。時折、どこからか低い声で祈祷のような響きが漂ってくる。
「失礼します」と声をかけても、誰からも返事はない。ふと視線を感じ顔を上げると、家の陰から誰かがこちらをじっと見ていることに気付いた。小柄な老人だった。彼は京太郎に手で合図し、近づいてくる。
「こんな時間に訪れるとは珍しい。何かお探しかね?」老人は煙草をくゆらせ、小さな声で話しかけてきた。
「写真を撮りに来たんです。この村がとても美しいと聞いて」と京太郎は答える。
老人はしばらく間を置き、重々しく口を開いた。「この村には、一つの風習があるんじゃ。よそ者に見せることは決してないが、今夜は特別じゃ」
興味をそそられた京太郎は「風習とは何ですか?ぜひ見てみたいです」と前のめりになる。
「ただし、絶対に手を出してはならん。見ておるだけじゃ」と老人は念を押す。京太郎はうなずき、それを条件に老人に連れられて村の中心へと歩んでいった。
村の広場には、大きな祭壇が設置されており、その周りには村人たちが集まっていた。祭壇には古びた人形が並べられ、香の煙が立ち込めている。その異様な光景に、京太郎は得も言われぬ不安感を覚えた。
「この風習は『清めの儀』と呼ばれ、村を守るために行うのじゃ」と老人は言った。「よそ者には奇異に見えるかもしれんが、これがわしらの生き方じゃ」
やがて、長老と思われる者が祭壇に立ち、儀式は始まった。長老は古い詠唱を唱え始め、それにあわせて村人たちが共に祈りを捧げる。よそ者の京太郎には、その意味を理解することはできない。ただ、その異様な雰囲気に圧倒されるばかりだった。
祈りが最高潮に達した時、一瞬の静寂が村を包んだ。次の瞬間、祭壇の上に置かれていた人形の一つが、まるで生きているかのように動き出した。京太郎の背筋に冷たいものが走る。
「これが、わかるか?」老人が問う。
京太郎は答えられなかった。それどころか、目の前で動き出した人形から目が離せなかった。祭壇を中心に、村人たちが静かに祈りを続ける中、人形は祭壇から舞台のように舞い降りると、ゆっくりと京太郎の方へ歩み寄ってきたのだ。
息を飲む京太郎に、老人は再びささやいた。「絶対に、触れるな」と。
その時、人形の顔が不意に京太郎を見つめた。それは無機物のはずなのに、生きた霊魂を宿したような瞳だった。思わず後ずさろうとする京太郎だったが、何かの力に縛られたように動けない。
「それは村の『大き者』…」老人が神妙な面持ちで呟く。「村を守る魂じゃ」
急に、すべての音が消えた。人形は京太郎のすぐ近くまで来ると、その小さな手を京太郎の肩に置いた。その瞬間、京太郎は確かに感じた。それは人形ではなく、はるか昔の誰かの思いだった。
「帰るがよい…」誰かの声が頭の中に響いた。
気がつくと、京太郎は村の入口の近くに立っていた。祭壇も、村人も、人形も、すべてが夢の中の出来事のように遠い記憶になっていた。が、肩に触れたその感触だけは、現実として彼を捉え続けた。
村を離れる彼の背中に、誰かの視線を感じた気がしたが、振り返ることはできなかった。車に乗り込み、彼は慌てるようにその場を後にした。
あの村で何が行われていたのか、京太郎は最後まで理解することはできなかった。しかし、あの日を境に彼が撮影した全ての写真に、見慣れない人影が写るようになった。そして、それを見た誰もが口にするのだった。「これは、誰?」
京太郎はその村の風習に触れた一夜を、決して忘れることができなくなった。それは恐怖というより、触れてはならない禁忌を知ってしまった人間が抱える重みだった。閉ざされた村の、厳かな風習の一端を垣間見た彼は、かつての静寂を取り戻した村を思い、深い感謝と共に静かに目を閉じたのだった。