霧深い村の異界儀式

風習

霧深い山々に囲まれたその村は、まるで時代から取り残されたかのようだった。突然の転勤でこの地に赴任することになった私にとって、その村は一種の異世界のように思われた。村に着いたのは、秋の長雨が続く日没近く。山道を進むたびに、薄暗い夕闇が足元に忍び寄ってきて、まるで目に見えぬ何者かが、その道すがらずっと私を監視しているような錯覚に陥った。

村の入口に立つ石の鳥居が、その地の神秘性をいっそう際立たせていた。鳥居をくぐると、どこからともなく漂う香ばしい匂いが鼻を突き、かすかに聞こえる太鼓の音がまるで心臓の鼓動のように響いた。耳を澄ませば、水の流れる音が重なり、村全体がかすかに震えているかのよう。そんな異世界に足を踏み入れると、不安と興奮が胸を満たしていた。

宿に案内された私は、村の歴史や風習について簡単な説明を受けた。宿主の老人は穏やかで親切だったが、どこかしら目が笑っていないように感じた。彼が語る村の祭りや神事の由来は、どれも聞いたことのないものばかりで、特に興味を惹かれたのは「夜鳴き祭り」というものだった。それは、村全体が一晩中、声を潜めて何かを待つという祭りらしい。

「何を待つんですか?」と思わず聞いた。

老人は一瞬言葉を失い、そして静かに笑みを浮かべてこう答えた。「それは会った時のお楽しみだねぇ。」

その答え方が、かえって私の不安を煽った。夜、部屋に戻って床に就くと、不意に窓の外で何かが動く気配を感じた。耳を澄ませば、遠くから誰かのささやく声や、足音がひっそりと聞こえてくる。そして、ふと気が付けば、ドアのそばに老婆が立っていた。彼女は静かにこちらを見つめ、一言「来る祭りを楽しんでおくれ」と言い残し、消えるように去ってしまった。

その夜、夢うつつの中で私は、何か巨大なものが迫ってくるような圧迫感に苛まれた。それはまるで、山々そのものが命を持ち、私を飲み込もうとしているかのようだった。この村の何もかもが、現実と幻の境界を曖昧にさせ、底知れぬ恐怖を呼び起こす。

翌朝、村のあちらこちらを歩き、住民たちと会話を交わしたが、どの話題も不思議と「夜鳴き祭り」に結び付く。村人たちはその祭りに対して異常なまでの期待感を抱いているように見えた。老人から子供まで、何かを待ち焦がれ、何かを信じ、そして恐れているようだ。

祭りの夜が訪れた。村中の家々は灯が消され、人々は影のように家々の中に篭った。私はその不気味な静寂の中、一人で村を歩くことになった。時折吹く風が、肌寒さを引き立て、足元に積もる落ち葉がざわめく。月は薄雲に覆われ、血のように赤く染まり、その光の下で、村は異様なまでに静まり返った。

どこからともなく、あの太鼓の音が鳴り始めた。それは一定のリズムを保ちつつも、どんどんと私の心拍数を速めるような不快感を伴う音だった。やがて、村の中心にある広場へと誘われるかのように進んでいくと、そこには何もいないと思いきや、実際には数人の村人が静かにたたずんでいた。彼らは皆、一様に広場の一角を凝視している。

その先に視線を移すと、そこには古びた大きな鏡が立て掛けられていた。鏡に映るのは揺らぐ影ばかりで、何もはっきりとは見えないが、私はその鏡に吸い寄せられるようにして歩み寄った。すると、鏡の中にふと、青白い顔をした顔が浮かび上がった。それはまるで、私の内なる深淵から這い出してきたかのような存在だった。

突然、村人たちが口々に何かを唱え始め、その声が不協和音のごとく不気味に響く。その瞬間、鏡の中の顔が口を開け、こちらに向かって声を発した。「お前は選ばれた者だ」と。その言葉は私の心に直接響き渡り、全身が凍り付くような恐怖に襲われた。

村人たちは私に近づき、何か儀式めいたものを施そうとしているのが分かった。気がつけば私は、その奇妙な儀式の中心に立たされていた。周囲の声は次第に高まり、やがてそれは到底人間の声とは思えないほどの狂気に満ちた叫び声と化した。

恐怖は頂点に達し、私はその場から逃げ出すことを決意した。目の前の何かから、そしてこの異様な村から逃げなければならない。振り返ると、広場には誰もいなかったかのように静まり返っていた。そして鏡は、ただひとつ、そこに佇んでいるだけだった。だが私は、その鏡の中に、誰にでもない何かがこちらを覗き込んでいる気配を感じた。

その日以降、村から出ることに決めた。だが出発の日、村人たちの誰もが無言で私を見送り、ただ微笑むだけだった。彼らの視線は変わらず優しいが、どこかしらに恐ろしさが潜んでいるように感じる。その微笑みが意味するものを考えるたび、背筋が冷たくなった。

村を後にして久しく、あの「夜鳴き祭り」の詳細を知る機会はなかったが、時折、夢の中であの鏡がふと現れ、再び私を呼び出そうとする。忘れかけた記憶が、まるで風の囁きのように私の耳に届く。逃れられぬ何かから、永遠に追われ続けるように——。それは、あの村に今も続く、永遠の風習の呪いなのかもしれない。

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