霧が立ち込め、ひどく寒い夜だった。私は一人で山間の道を走っていた。仕事で訪れた都市からの帰り道、道に迷い込んでしまったのだ。ナビの指示に従った結果、舗装のされていない細い道に入り込んでしまい、進むも戻るも叶わず、やむを得ずその道を進むことにした。
ほどなくして、霧の中にぼんやりと集落が現れた。古びた木造の家々が寄り集まるように並び、その周りを黒く湿った田畑が広がっていた。肩をすくめるように小さくなった村は、どこか物音ひとつない静寂に包まれていた。その静けさが、むしろ何か不吉なものを感じさせる。
村の入口で車を止め、勇気を振り絞って車を降りてみると、ひんやりとした夜気が私を包み込んだ。宿を探そうと薄暗い道を進んで行くと、やがて一軒の古びた民家から淡い光が漏れているのが見えた。家の軒先には「民宿」と書かれた木の看板が控えめに揺れている。温かい光に誘われるように、その家の扉を叩いてみることにした。
扉を叩くと、中から古びた着物を着た初老の女性が現れた。彼女は私を見ると、驚くほど穏やかな笑みを浮かべ、「どうぞお入りくださいませ」と促してくれた。不安を抱きつつも、私はそのもてなしに甘んじて、休ませてもらうことにした。部屋は粗末ながらも清潔で、茶色い畳の香りが心を静めてくれた。
「夕食の準備をしますので、少しお待ちください」と言い置いて、女将は台所へと姿を消した。私は部屋に備え付けられた窓を開け放ち、村の様子を窺うことにした。月明かりの下、村の輪郭がぼんやりと浮かび上がり、風に吹かれる竹林のささやきが耳に心地よく響く。
やがて、夕食の準備が整うと、女将は再び姿を現した。夕食の席では、女将と少しばかりの世間話を交わしたが、どうにも村のことが気になって仕方がなかった。私はつい口を衝いて訊いてしまった。
「この村には、どんな風習があるのですか?」
すると、女将の表情が一瞬硬直した。しかし、すぐに柔らかな微笑みに戻り、「あまり人には話したことはないのですが」と前置きをして話し始めた。
「この村では、年に一度、とある祭りが行われるのです。『とおる祭り』と呼ばれるもので、村の守り神に感謝の祈りを捧げ、豊穣を祈願します。この祭りでは一人の若者が”通り道”を守る役目を担い、その道を通らせることで村の平穏が約束されるのです」
彼女の言葉は慎重で、どこか慎み深く、なおかつその内容は奇妙なものであった。私は村の住人の目に映る異質な風習の端々に、どこか胡散臭さを感じずにはいられなかった。
その晩、私はどうにも眠れずにいた。あの祭りについて考えれば考えるほど、不安が募る。もしかしたら、私が今ここにいることが何かしらの形で関わっているのではないか…そんな漠然とした恐怖が、心の奥底でくすぶり始めた。
しばらくすると、耳元でかすかな音がした。まるで人の話し声のようだったが、それは霧に包まれた村の一部始終が私の耳に直接入ってくるかのようだった。窓の外を覗くと、村の中央にある広場では、藁をまとった人々が何かの期間行事のようなものを行っていた。
私はその光景をひたすら見つめていたが、やがて奇妙なことに気が付いた。広場を囲み、静かに佇む村人達が、いずれも一心に何かを口にする姿があった。それは自然な会話ではなく、まるで呪文のように繰り返されていた。
彼らが唱えている言葉が何であるのか、私には分からなかったが、そのひとつひとつがこの村の深奥を告げる鍵であるように感じられた。それは旧来の風習に縛られた集団意識のようであり、私を威嚇しているかのようだった。
やがて、女将がその呪文の列に加わり、私に気付かないまま静かに通りかかった。彼女の表情には、昼間の柔和さなど微塵もなかった。ただ、彼女と目が合った瞬間、私は瞬時に彼女の声を聞いた気がした。
――どうか…、この村を、私たちを、救っておくれ。
その刹那、私はこの村が抱える深い闇を垣間見た気がした。この村は何かに囚われている。強烈な支配の力に、村全体が絡め取られているのだ。この祭りは、村人達を守るためのものではない。村を異界と繋げ、この場所を束縛する鎖のひとつだった。
その日私は一睡もできず、夜明けが近づくにつれ、恐怖と不安は募るばかりだった。村の人々の異様な姿が頭の中を駆け巡り、私は潮の満ちるのを待つ船のように、何もできずにただその場に立ち尽くしていた。
明け方、私は決心した。この村を出て行かなければならないと。日が昇ると同時に荷物をまとめ、村を抜け出そうと決意した。女将は何事もなかったかのように私を見送ったが、その瞳の奥には何かを懇願するような色が宿っていた。
私は村の坂道を駆け下り、車へ戻った。エンジンを掛け、道なき道を進む中、後ろを振り返ると、村は再び霧に包まれ、まるで最初から存在しなかったかのようにも思えた。
その後、無事に都市部に戻った私は、あの村のことがどうしても忘れられず、図書館やインターネットを駆使して様々な資料を探してみた。しかしながら、そのような村の記録は書籍にも地図にも残っていなかった。あの夜、私は本当にあの村へと迷い込んだのだろうか?それとも、あれは我が宿した妄想か、あるいは夢幻の一端だったのか?
そんな疑念とともに、心の片隅には一つの確信が残っていた。あの村は今も霧の中で息づいている。静寂に潜む無形の恐怖、そしてその闇の中で囁く声。それらはやがて風となり、いつか再び私のもとへと帰ってくるのではないか。そう思うと、再び恐怖で心が緊張した。
この世には、触れるべからず、知られるべからずの場所が存在するのかもしれない。それを知ることなく過ごせるのならば、それは幸運であるのだと、不気味な教訓を胸に、私は自らを懸命に慰めるのだった。