僕の名前は健太。30歳を過ぎた普通のサラリーマンで、どこにでもいるような人生を送っていた。週末になると特に予定がない限り、家で酒を呑みながら映画を観るのが唯一の趣味だった。家は都心から少し離れた古いアパートで、家賃が安い代わりに時折壁が薄いのが気になる程度だった。
ある週末、新しく借りた映画を観終わって、そのままソファでうたた寝をしてしまった。夜も更けた深夜2時ごろ、ふと意識が戻った時だった。少し肌寒い風が窓から吹き込んでいるのを感じて目を覚ました。どうやら窓を閉め忘れていたらしい。身体を起こして窓辺に近づくと、目の前に想像もしなかった光景が広がっていた。
窓の外には、隣の建物があるだけのはずだった。しかし、その時はどこからともなく霧が立ち込め、まるで別世界にいるような不思議な光景が広がっていた。霧の中には、ぼんやりと人の影が見えた。驚いた僕は思わず窓を閉めたが、何故か気になってもう一度窓を少し開けてみた。すると、その影が段々とこちらに近づいてくるのが分かった。
「あれは何なんだ?」そう思って目を凝らすと、影は徐々に明確な形をとり、やがて中年の女性の顔が浮かび上がった。彼女の顔は微笑んでいるようだったが、その目にはどこか寂しさを携えていた。僕は瞬間、動けなくなり、ただただその女性の顔を見つめていた。
その後日、不思議なことにその現象が何度も繰り返された。深夜になると窓の外に霧が立ち込め、彼女の顔が現れる。何度目かの再会の時に、僕は勇気を出して声をかけた。「あなたは誰ですか?」
しかし、声をかけても返事はなかった。ただ唇が微かに動いただけだった。その口元が動く様子を見る限り、彼女は何かを伝えたいようだった。数回目の夜、夢中になった僕は窓をすっかり開けると、彼女としっかり目が合った。そして、彼女の唇が動いて、確かにこう言った。「助けてください。」
その瞬間、何かが心の中で弾けた。彼女は単なる幽霊や幻想ではないと思った。何か現実的なことを伝えようとしているのかもしれない。そこで僕は彼女を調べることにした。近所の古本屋で昔の地図を探して、さらに歴史書をいくつか買い込んだ。
調査を開始してから数日後、最寄りの図書館で古い新聞を閲覧しているとき、衝撃的な記事を見つけた。なんと、僕が今住んでいるこのアパートの敷地内で20年前、ある悲劇があったらしい。建物は当時のものから改装されて現代の形になったが、記録によると、かつてこの場所には古い一軒家が建っていた。その家では、中年の女性が殺害されるという事件が起きたというのだ。
名前は田村美咲さん。写真には、確かにあの窓の外で見た女性の顔が写っていた。彼女は謎の不審死を遂げ、その事件は未解決のまま終わってしまったという。そのままでは不満だったのか、今もこの場所に囚われているに違いないと、僕は何か直感的に感じた。
その晩、いつものように彼女は現れた。僕は恐怖よりも使命感に駆られて、再び彼女に問いかけた。「どうすればあなたを助けられるのですか?」
彼女の口元が再び動いた。「真実を告げて。伝えて。」その場でメモを取り、彼女の唇の動きをできる限り正確に書き留めることにした。何度も確認しながら、ピースを集めた。やがて、彼女が本当に望んでいることが何か理解できるような気がした。
彼女が求めていたのは、事件の真相を世に知らせることだった。そして、犯人と思しき人物の名前も、口の動きを通じてかすかに読み取ることができたのだ。田中誠一という名だった。
次の日、僕は意を決して警察に行き、その集めた情報を伝えた。最初は信じてもらえなかったが、田中誠一が屈強な男で、その事件当時も彼女に付きまとっていたという証言を得ることができた。さらに調査が進み、ついに新たな証拠が見つかり、彼が犯行を行ったことが判明した。
事件が解決されるまでストーリーは続いた。彼女の顔が窓に現れることは、もう二度となかった。心の中では安堵の気持ちが広がったが、その代わりに、本当にそこにあったものが消える寂しさも残った。
毎晩彼女の微笑みを忘れることはないだろう。彼女を助けることができたのは、ただ風の噂ではなく、彼女自身の求めが真実を導いてくれたからだと思った。僕の人生におけるこの不思議な体験は、ありふれた日常の中で、現実と心理の境界線を問い続けるものだった。彼女の事件が解決され、僕はやっと心の中で、彼女が安らかに眠ることができることを願った。