雨が静かに降り続ける夜だった。灰色の雲が空を覆い尽くし、街の灯りをぼんやりと霞ませている。窓際に座る麻美の手元のスマートフォンには、まるで止むことのない雨のようにSNSの通知が次々と届いた。彼女の指先は画面を滑らかに操作していくが、その目はどこか不安げに揺れている。
麻美は大学生だ。先日、自分のSNSアカウントに奇妙なメッセージが届いて以来、彼女の日常はじわじわと不安に蝕まれていた。送信元不明のそのメッセージには、見覚えのない風景写真が貼られていた。ぼやけた白黒の写真には、見慣れた商店街の背後に立つ彼女自身の姿が小さく写っていた。誰が、何の目的で彼女の写真を撮ったのか。
はじめは悪戯だと思っていた。しかし、次第にメッセージの頻度が増し、内容もエスカレートしていく。個人的なこと、例えばその日の服装や行動までも言い当てられたメッセージが続くうちに、麻美は掃除機をかける時でさえ背後を気にせずにはいられなくなった。ある夜、彼女は意を決して友人に相談することにした。その友人、真希は情報系の学部で、普段からサイバーセキュリティには造詣が深い。
「うーん、やっぱり誰かが君を監視しているのかもしれないね」と真希は慎重に言った。「まずはアカウントのパスワードを全部変えてみたら? あと、できれば警察にも相談したほうがいいかも」
麻美は真希の言葉に従い、あらゆる手段で自分の情報を守ろうとした。しかし、メッセージが途絶えることはなかった。それどころか、送信者はますます彼女の私生活に踏み込んでくるようになった。
ある晩、麻美が部屋で宿題に取り組んでいると、急に街灯が消えた。部屋の中は深い闇に包まれ、彼女は不安にかられてカーテンを強く閉じた。だが、数分後、スマホの画面に新しいメッセージが届いた。「どうしてカーテンを閉めたの?」という一文が、彼女の胸に冷たい恐怖を突き刺した。
麻美の不安は日に日に募るばかりだった。身の回りのどこかに、彼女を常に見つめている目があるのではないか――そんな漠然とした恐怖は、彼女の心を徐々に蝕んでいく。それでも、大学の授業やバイトの日々は続いており、周囲の誰にも気付かれることなく、彼女は日常を演じ続けた。
ある日の授業後、麻美は再び真希を訪ねた。真希の部屋に入ると、机の上には開かれたノートパソコンがあり、彼女は何やら複雑そうなプログラムを見つめている。麻美が状況を説明すると、真希は一瞬考え込み、それからこう提案した。
「監視されているのがリアルかバーチャルか見分けるために、ごく一般的な場所に行ってみれば?」と。「例えば、カフェとか公園とか、誰にも見られているわけじゃない場所に行って、何か特別な行動をしてみて。それをメッセージで言い当てられたら、確実に誰かが近くにいるってことになるから」
麻美は半信半疑のまま、その提案に従った。そして、その夜、アカウントにまたしても奇妙なメッセージが届いた。「今日は赤いスカーフが素敵だったよ」と。それは、麻美が公園のベンチで偶然手に取ったスカーフのことだった。彼女の恐怖は、もはや言葉にできないほどのものとなり、眠れぬ夜を過ごすことに。
幾晩が過ぎた頃、麻美はとうとう決心して、ある日に大学を休んだ。真希からのアドバイスを頼りに、彼女は部屋を徹底的に調べ始めた。地方に住む両親には、「体調を崩した」と、しおらしい嘘を書いた。
とある瞬間、何気なくめくったカーテンのうらに、彼女は小さな光った点を見つけた。それは、壁掛け時計の針にうまく隠されたカメラで、赤色のライトが小さく点滅しているのを発見した。心臓が凍り付くような感覚の中で、彼女は震える手でカメラを取り外し、写真を撮って証拠として保存した。
その夜遅く、真希がなおも支援を申し出てくれたが、麻美は警察に相談する決心をした。証拠品を手に、麻美は警察署に赴き、自分の身に起こったことを詳細に説明した。警察はすぐに捜査を開始し、ハッカーの存在を特定するために動いた。
しばらくして、犯人につながる手掛かりを発見する。予想外にもそれは大学の同級生だった。彼は内気で目立たない存在で、普段は決して麻美に関心を示すことのないタイプだった。彼の動機は、「麻美の生活に関わりたかった」という歪んだものであり、彼女の反応を見るのが楽しみでメッセージを送り続けていたという。
事件が解決した今でも、麻美の心には深い傷が残っている。その傷は雨のように静かで、しかし確かに彼女を侵食していく。麻美はSNSを辞め、新しい生活を始めようと心に誓ったが、彼女の背後に迫る不安が、完全に消えることはなかった。誰も気付かない場所で、今も静かに雨は降り続けている。