闇に囚われた図書館の夜

異次元

灰色の雨が降る夜、私は古びた小さな図書館の中にいた。その図書館は、町の外れに位置し、今では訪れる人も少ない場所だった。しかし、私はそこで働くことを好んでいた。静かな時間の流れと、古書独特の香りが心地よく、何より書物の中に佇むことが私の逃避場所だった。

その晩も私は、時代とともに色褪せた皮の表紙を持つ本を何冊も棚に戻していた。外では風が木々を揺らし、時折窓を叩く雨音が聞こえる。電灯の淡い光が、古びた机の上に影を落とし、部屋の片隅には暗闇がうずくまっていた。

そんな時、ふと背後に冷たい気配を感じた。振り返ったその先には、見知らぬ男が立っていた。彼はいつからそこにいたのか、足音もなく私の背後に迫っていたのだ。それが異常であることに気付いた瞬間、背筋を冷たい恐怖が走った。

男は、黒いコートをまとい、顔は深いフードの中に隠されていた。彼の存在はまるで霧のように不定形で、舌打ちしたくなるほどに不確かであった。それでも彼の瞳だけは際立っており、底知れぬ闇の奥からこちらを見つめているようだった。

「貴方は何者ですか?」と問いかけると、男は微かに微笑んだように見えた。「あなたが探しているのは本当の知識ですか、それともただの慰めですか?」男の声は低く、何かを秘めた響きがあった。その言葉に返答する前に、彼は手に持った一冊の異様な本を私の前に差し出した。

その本は見たこともないような装丁で、表紙には理解しがたい文様が描かれていた。触れることすら躊躇われたが、何かに引き寄せられるように手を伸ばしてしまった。手にしたとき、その本は冷たく、しかし不思議な温もりも内包しているようだった。そして、ページを開くと、そこには言語では説明しがたい絵柄と文字が広がっていた。理解し得ない意味があらゆる方向から襲い掛かる。

その瞬間、周囲の世界が静かに、しかし確実に変貌していくのを感じた。目に見える図書館の風景が、まるで夢の中で起こるように溶けていき、周りの空間が歪み始めた。床は足元を失い、私の立っている場所さえも崩れ去るように揺らぐ。そこには光も影もない、無限の闇が広がっていた。

その闇の中には無数の目があった。人の目ではない、それは認識してしまえば気が狂ってしまいそうな、眺めることすら避けたくなる異形の眼球だった。私は恐怖に駆られ、体をその場から全力で動かそうとしたが、まるで動かぬ像のように固まってしまった。逃れようもなく、その目たちは私を食い入るように見つめ続けた。

「これがあなたが望んだ知識です。」どこからか男の声が響いた。その声は耳元で囁くように聞こえ、まるで意識を犯すように内に入り込む。「あなたが求めたものは、人が触れてはならぬ領域への扉なのです。」

私の理解をはるかに超えたその闇の中、私は自分が単なる一つの存在でしかないことを悟った。無限に連なる無数の世界の狭間で、私は塵のような存在であり、巻き起こる事象に影響を及ぼすことなどできはしない。絶望に声も出せず、ただその闇に圧し潰されそうになるまで立ち尽くす他なかった。

しばらくすると、濃密な暗黒が再び姿を変え、元の静かな図書館が私の周囲に戻ってきた。それでも、自分が戻ったべき現実とは異なることを直感的に理解した。この世界は仮初め、見慣れたものに似てるかもしれないが、その実、異なる次元に存在する何かが潜む影で満ちている。

二度とその男には会えず、彼が現れた理由も分からない。私は再び日常を送るようになったが、その背後には常に異次元の視線が感じられた。目を閉じれば、彼の声と異様な風景が蘇り、平穏な眠りさえ奪われてしまった。

頭の中でその全てを振り払うことができないまま、私は日々を過ごしていく。しかし、私が出会ったあの男との遭遇が失われたわけではないのだ。彼の言葉が今でも耳元で響く。私は今、どうにもならない恐怖の中で、日常という歪んだ仮初めの現実に囚われている。

図書館のその本はもう存在していない。それでも、私の中にはもう一つの扉が開かれたまま残っている。閉じる方法も知らないまま、それが再び開かれることへの恐怖に怯えている。あの夜、私は知らなければ良かったことを知ってしまった。その代償として、決して穏やかにはなれない夜を過ごす定めとなったのだ。

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