あれは、私がまだ若かった頃、大学生の夏休みに体験した出来事です。私の友人の中に「肝試しマニア」とでも呼べるような連中がいて、その夏も例のごとくどこか「禁断の地」へ行こうという話になりました。今回は特に”ヤバイ”場所だということで、鳥取県の奥地にあるとある山奥の廃寺に決まりました。地元では「触れてはならない聖域」として、あまりにも有名な場所だったのです。
車で数時間かけて到着したのは、すっかり日も暮れた頃。山道を進む車のヘッドライトが照らし出す先には、無数の木々と古びた鳥居が姿を現しました。「ここが入口だな」リーダー格の田中が呟くと、私たちは車を降り、懐中電灯の灯りを頼りに歩き始めました。木々に囲まれた小道は、昼間でも薄暗いに違いありませんが、夜の闇は一層その恐怖を引き立てていました。
しばらく歩くと、木々の間から古びた石段がちらりと見えました。それを登ると、巨大な門が姿を現します。その門の奥には草木に埋もれかけた廃寺がありました。寺の姿は月に照らされ、その異様な静けさが私たちを押し黙らせました。
田中は勇敢に門をくぐると、我々もそれに続きます。寺の境内に足を踏み入れた瞬間、空気が一変しました。まるで、異次元に引きずり込まれたかのような息苦しさと不気味な静寂が私たちを包み込みました。仲間たちはそれぞれ、懐中電灯を持って境内を散策し始めましたが、私は何故かその場から動けませんでした。
すると、突然目の前に何かが見えました。それは、半透明な白い影のようなものでした。私は一瞬、見間違いかと思いましたが、どうやらそれは本物でした。影はゆっくりと形を取り戻し、やがて年老いた僧の姿に変わりました。その目は空虚で、どこを見ているのか分からない、深い闇のようなものでした。
動けずにいると、その僧が静かに私に微笑みかけたのです。しかし、その微笑は決して人間のもつ温かさのあるものではなく、まるで私を嘲笑うかのような冷たさがありました。怖さのあまり叫び声が喉の奥で詰まった瞬間、ふいにリーダーの田中が私の肩を叩きました。「おい、どうした?」
我に返ると、霊の姿は消えていました。しかし、私の背中には冷たい汗が流れ、足はガタガタと震えていました。田中はその私の姿を見て眉をひそめましたが、何も言わずにただ私を促しました。
それから数分後でしょうか、突然、背後から「ギギギ…」という異様な音が聞こえました。振り返ると、寺の本堂の扉が勝手に開き始めていたのです。私たちはあまりの恐怖に凍りついていました。しかし、田中は意を決してその中に入っていきました。「無茶するな」と止めたかったのですが、声が出ませんでした。
本堂の中はさらに異様な雰囲気で、土間には無数の落ち葉が積もり、仏像の顔はすっかり崩れていて、どこか物悲しさすら感じました。するとまた例の僧が、今度は本堂の中央に立っているのを見つけました。田中はそれを見ても動じることなく、「これが噂の…」と呟き、謎の好奇心に駆られて先へ進もうしました。ですが、その瞬間、境内から響く異音に皆が振り返りました。
何かが近づいてくる。いや、正確には何か”が”境内を包むような低い唸り声。まるで大勢の人間が囁いているかのような音でした。耳を澄ますと、それは不明瞭ながらも古い言葉で何かを唱えているように聞こえます。呪文のように繰り返されるその音に耐えられなくなり、パニック状態の仲間数人が出口に向かって走り出しました。
私も逃げ出したい気持ちで一杯でしたが、そこにいる僧の視線が私に釘付けのままで、どうしても動けません。それは、まるで私をこの場に繋ぎ止め、何かを伝えようとしているかのようでした。その感覚は、ただの妄想であるはずもない異様な真実味を伴っていました。
徐々に意識がぼんやりとしてきた頃、突然他の仲間が私の腕を引っ張ってくれました。「こんなところにいたらやばい!」その声がきっかけで、我に返った私は、何とか廃寺を後にしました。もう振り返ることなく、必死で石段を駆け下りました。
廃寺を離れた瞬間、あの異様な音も僧の姿もすべて消え去り、不快な異世界からも解放されたかのようでした。冷たい夜風が私たちの恐怖汗を吹き飛ばし、改めて現実世界に引き戻してくれたように感じました。
それから数日、私たちはこの経験を他人に話す気にはなれませんでした。あの僧の微笑と目を見ただけで、一体何が起きたのか、確信することはできなかったのです。しかし、あの体験が現実だったことは否定できません。そして、それ以来私は”禁じられた場所”には二度と近づかないと心に決めました。
肝試しや心霊スポット巡りに興味を持つ人々へ、一言だけ忠告したいと思います。興味本位や探究心から聖域を侵すことは、決して安易に考えてはいけないことです。「触れてはならない聖域」とは、本当に触れてはならないからこその極境なのですから。