山あいの小さな村には、古びた神社がひっそりと佇んでいた。訪れる者も少なく、年老いた宮司がただ一人、毎日掃き清め、祭壇の手入れをするのみであった。村の者たちは、あの神社のことを「触れてはならぬ聖域」と呼び、なるべく近づかぬように暮らしていた。
昔からこの地では、幾多の伝承が語り継がれてきた。その中でも特に恐れられているのが、神社に宿る「木霊」の話であった。それは、神の使いと称される何かで、神社に不敬を働く者を裁くと信じられていた。
ある晩、都会からの客人である若い男性が村に訪れた。名を田辺といい、都会での仕事に疲れふけ、心を癒すためにこの田舎町を訪れたのだった。質素な宿屋に泊まり、村の景色や人々との温かい交流を楽しむ彼は、次第にどこか心の隅に引っかかるような好奇心を覚え始めた。
その好奇心の源は、村外れにある神社への興味であった。「禁忌」とされるその神社について、村の者たちは決して詳しく語ろうとはせず、ただ一様に「行かぬ方が良い」と口を揃えただけだった。それがかえって田辺の探求心を煽り立て、彼をそちらへ引き寄せてしまったのだ。
ある日のこと、田辺はいつものように村中を散策していたが、ふと足を神社の方へと向けた。その道中、時折、木々の間から垣間見える神社の姿に、不思議と親しみを感じた。そうして気づけば、彼は神社の境内へと足を踏み入れていた。
無人の境内には、鳥たちの囀り以外、何の音も聞こえない。進むにつれ、古びた社殿が姿を現した。その瞬間、田辺の胸中に一瞬の躊躇が生まれた。それは、何か目に見えぬ力によって前進を阻まれるような感覚だった。しかし、彼はこの感覚を振り払い、さらに奥へと進んだ。
社殿の前で立ち止まり、田辺は手を合わせ、軽く一礼をした。心の中で「失礼します」と呟くと、突然、風が巻き起こり、木々がざわめき始めた。その異様な音に、彼は思わず身を竦ませたが、それ以上の者は何も起きなかった。静寂が戻った境内で、彼は少し安堵し、社殿の縁側に腰を下ろした。
日が傾き始め、彼は薄暮の中で静かに時を過ごしていた。すると、どこからともなく人の気配を感じ、振り返ると、一人の老人が立っていた。驚いて立ち上がると、老人は穏やかな表情を浮かべながら、彼に静かに語りかけてきた。
「なぜ、このような場所に足を踏み入れたのかね」
その言葉に、田辺は自分の軽率な行動を反省しつつも、静かに事情を説明した。都会の喧騒から逃れ、この地で過ごすことで自身を見つめ直したかったこと、そして、単なる好奇心からここを訪ねたこと。
「そうか。それならば、一つだけ覚えておくと良い」
老人の声には、何か重々しい響きがあった。
「この神社は、決して単なる過去の遺物ではない。ここに住まう者たち、そして訪れる者たちにとっては、今なお生き続けている場所だ。触れぬほうが良いという言葉には、そうした意味合いも含まれておる」
そう言うと、老人は静かに去っていった。田辺は、彼の後姿を見送りながら、自らが何か重大な過ちを犯したかのような気持ちに包まれた。しかし、好奇心の力に勝てず、彼は空を見上げながら、もうしばらくここに留まることにした。
辺りが闇に包まれる頃、突然、辺りの空気が変わった。得も言われぬ重々しい圧力が、神社全体を包み込んでいる。唐突に襲ってきた息苦しさに、田辺は慌てて立ち上がる。しかし、その瞬間、彼の視界に信じられない光景が飛び込んできた。
彼の目の前に、巨大な黒い影が揺らめいていた。それは明らかに神の使いとされる木霊であり、ゆらゆらと宙を漂っていた。その姿は、まるで濃密な闇が凝縮されたかのように、昼の光景を飲み込んでいく。田辺は背筋に冷たいものを感じ、後ずさりした。
だが、足はすでに言うことを聞かず、彼はその場に立ち尽くすしかなかった。次の瞬間、影が不気味なほどにゆっくりと動き出し、田辺に向かって手を差し伸べたのだ。伸びていくその暗黒の手に、彼は凍りついたまま、なす術もなく立ち尽くした。
すると、突如としてあの老人の声が頭の中によみがえった。
「無礼者には報いがある。しかし、帰るべき道を知った者には、まだ道が開ける」
その言葉に、田辺ははっと我に返った。帰ろう、まだ取り返しがつくかもしれない。彼は恐怖で震える身体をどうにか動かし、一心不乱に神社を目指して走り出した。足音が境内を駆け抜け、彼の後を追うように木霊が木々の間を漂ってくる。
彼は無我夢中で走り続け、ようやく神社の外に出た瞬間、暗黒の力がぴたりと止まった。振り返ると、あの影は既に跡形もなく消え失せていた。放心状態のまま立ち尽くす田辺を、秋の夜風が優しくなでる。
その夜、田辺は村の宿に戻り、すべてを話すことはなかったが、ただ静かに眠りについた。翌朝、彼は村を去り、二度とここを訪れることはなかったが、あの神社で感じた得も言われぬ感覚を、彼は生涯忘れることはなかった。
村の人々もまた、田辺のことを深くは語らなかった。ただ木の葉の囁きが、時折彼を思い出させるばかりである。そしてあの神社は、時の流れの中でただ静かに、今もなおそこにある。そっと触れてはならない聖域として。