神隠しの恐怖と田中君の帰還

神隠し

数年前の話だが、いまだに鮮明に覚えている出来事がある。その日はいつもの職場の飲み会があり、場所は勤務先から少し離れた山奥の居酒屋だった。都心から車で二時間ほどの自然豊かな場所で、緑に囲まれているせいか、都会の雑踏とは無縁の静けさがそこにはあった。

飲み会自体は大したイベントではなかった。よくある新人歓迎会で、新入社員たちが自己紹介をし、先輩たちと打ち解けるための場だった。しかし、その時、僕の心の中には漠然とした不安感があった。普段は車で参加するような場所には来ないし、そもそもその居酒屋には行ったことがなかったから、道順に少し不安を感じていた。

飲み会が終わり、深夜になって解散となった。その居酒屋は山道の途中にあり、タクシーも簡単には拾えない場所だったので、会社の同僚たちと一緒に歩いて麓まで降りることにした。外は霧が立ち込めており、視界が悪く足元もおぼつかなかった。

途中、夜道を歩いていると、ふと気づいたことがあった。何かがついてきているような気配。後ろを振り向いても何もない。ただ、風が木々を揺らす音と、自分たちの足音以外にもうひとつ、微かだが間違いなく感じられる何かの足音があった。それはまるで、誰かが僕らを真横でずっと見守りながらついてきているかのようだった。

そのとき、後ろで一緒に歩いていた新人のひとり、田中君が立ち止まり、「ちょっと待ってください」と言った。ぼんやりとした霧の中で彼の表情ははっきりと見えなかったが、その声には明らかに不安と恐怖が混ざっていた。「どうしたの?」と聞くと、「なんだか、変な感じがする」と彼が言う。それは僕も同じだった。

やがて彼は「少し探してみます」と言い、ふらふらと山の中へ入って行ってしまった。もちろん、「危ないからやめろ」とか「みんなで一緒にここで待とう」と声をかけたが、彼は聞く耳を持たなかった。まるで何かに取り憑かれたかのように無表情で、ただただ山の奥深くへと進んでいく。その背中を見失わないよう僕らも彼に続こうとしたが、霧が濃く視界が悪かったため、数メートル進むと彼の姿は完全に見えなくなってしまった。

「どうする?警察呼ぶ?」他の同僚が不安げに言う。僕は携帯電話を取り出してみた。しかし、電波が通じない。この状況でこれ以上みんながバラバラになるのは危険だと思い、結局その場で戻ることを決めた。少し歩くと電波が戻ると考え、街の灯りが見える場所を目指して歩き始めた。

再び街の明かりが見え、電波が通じる場所まで来た頃には、皆が精も根も尽き果てていた。すぐに警察に連絡し、事情を説明したが、捜索は翌朝まで待たなければならなかった。

翌朝、警察の捜索が始まった。僕らも参加し、山中を探し回った。しかし田中君は見つからなかった。まるで、彼が最初から存在していなかったかのような異様な感覚が僕たちを包んでいた。

その後、何事もなかったかのように日々が過ぎて行ったが、ふとした瞬間に田中君のことを思い出しては、不気味な感覚に襲われた。田中君の家族や友人たちはもちろん、会社の全員が彼の失踪を心配し続けた。数ヶ月後、田中君の捜索活動は打ち切られ、未解決事件として一旦は幕を閉じた。

ところが、事件からちょうど一年後、田中君が忽然と会社に現れたのだ。彼はまるで何事もなかったかのように笑顔で「お久しぶりです」と言った。僕たちは彼の姿を見て驚いたが、何かが違うと直感で感じた。彼の表情や仕草、声色が微妙に違っていたのだ。

上司たちが再び田中君に事情を尋ねたが、彼は「特に覚えていない」とだけ答えた。どこにいたのか、どうやって帰ってきたのか、そんな質問に対して彼の答えは曖昧だった。ただ、「気がついたら会社の近くにいた」というのが彼の語る唯一の真実だった。

彼が戻ってきてからというもの、彼の周囲には不思議なことが頻繁に起こった。電気が突然消えたり、彼の周りだけ気温が低くなったりするのは日常茶飯事だった。極めつけは、彼が消えた夜のことを鮮明に覚えている走馬灯のような夢を、毎晩のように見るようになったのだと言う。

その後も僕は田中君との関係を続け、時折彼との会話を試みた。しかし、会話の度になにかしらの違和感が消えない。以前の彼とは決して同一人物ではないような気がしてならなかった。

彼は本当に田中君だったのだろうか。彼が体験したのは一体何だったのだろう。それを考えると今でも背筋が寒くなる。彼は異界に迷い込み、そこで何かと交換されてしまったのかもしれない。そういった奇怪な出来事が、僕に神隠しの恐怖を鮮明にさせるのだ。

噂によると、あの山には古くからの言い伝えがあったという。祭りの日になると異界への門が開かれ、間違った方を選ぶと異界に引き込まれるのだと。それが真実かどうかはわからない。ただ、僕にとってはそれが事実として恐ろしく感じる出来事だった。

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