雨がざあざあと屋根を叩く音が、夜の静けさを一層際立たせていた。大学の研究室に籠もる私は、その音を耳障りだと感じながらも、目の前の実験テーブルに集中し続けた。机の上には無数の試験管とメスシリンダーが並ぶ。その中で特に異彩を放つのは、一見無色透明に見えるが、微かに虹色の光を反射する液体だった。私の恩師であり、この研究の主導者である田島教授は、その液体を「新次元の精髄」と呼んでいた。
「われわれは、ついに神の領域に足を踏み入れるのだ。」田島教授はいつもそう言って、薄い唇に微笑を浮かべた。だが、その笑顔はどこか冷淡で、人間味が感じられなかった。彼の目的は、人生の数十年をかけて培った科学技術で人類の可能性を拡張することだった。だがそれは、果たして本当に人類のためになるのか、私は心の片隅で常に疑問を感じていた。
実験は、生体細胞にこの液体を導入し、その変化を観察するというものだった。理論上、この液体は細胞を再生させ、劣化した部分を驚異的な速度で修復するはずだった。だが、温度管理や注入方法に関するデータが急ごしらえのものであったため、実験は何度も失敗していた。それでも教授は焦ることなく、冷静に次の実験計画を練っていた。その冷静さが、時に私を不安にさせた。これほどまでに執念を燃やす理由が、私にはわからなかったのだ。
その夜も、実験は一進一退を続けていた。試験管に入れた液体が反応を示すとき、細胞は一瞬輝きを増し、次の瞬間に崩壊する。幾度となく失敗を重ねる中で、私は日付も時間も忘れて、ただ夢遊病者のように手を動かしていた。だが、その晩のある瞬間、何かが変わった。いつもと違う、異質な感覚が私の胸に押し寄せたのだ。
実験室の空気が、急に重く沈殿したように感じられた。蛍光灯の明かりが、不気味に揺らぎ始める。空調設備が誤作動しているのか、急激に温度が上昇し、私は額に汗を浮かべた。試験管の中の液体が、まるで生き物のように脈動しているのが見えた瞬間、心臓が凍りついた。
そのとき、教授が静かに部屋に入ってきた。彼の顔にはいつもの笑顔がなく、その目はまるで狂気に満たされているようだった。「見ろ、これが新しい世界だ。」彼の声は低く、危険な響きを持っていた。彼は私の手から試験管を奪い取り、あろうことかその液体を自らの手に垂らしたのだった。
その瞬間、教授の体が激しく痙攣し始めた。液体が彼の肌の上で化学反応を起こし、皮膚の下で何かが蠢き出すのを目の当たりにした。彼の体は徐々に膨張し、コンクリートの床に倒れ込む。私の中で何かが叫び声を上げていたが、声にはならなかった。「人はここまでして、神を超えようとするのか…」無意識にそう呟いていた。
床に倒れ込んだ教授の体は、見る間に異形と化していく。その変化はまさしく悪夢のようだった。皮膚は淡く青白く、不規則に膨れ上がり、その間を這いずり回るように血管が浮かび上がる。彼の肉体は人間の形を失い、ただ奇怪な塊となって床を這っていた。
恐怖にかられ、一歩下がったその瞬間、何かが私を掴んだ。視線を下にやると、それは教授の変異した手が私を引き寄せていたのだった。その冷たい感触に心臓が止まりそうになり、振りほどこうともがいたが、やはり無駄だった。彼の目が、かつての師の狂気とも悲哀ともつかない光を宿し、私を見上げている。
その後の記憶は、まるで硝子のように不確かである。後に目を覚ましたとき、私は研究室の片隅で意識を取り戻していた。床は何故か乾き切っており、教授の姿は消えていた。残されたのは無数の試験管と、制御を失った異様な装置群だけだった。
その出来事以降、私は研究室を離れ、一切の連絡を断った。人々は突然の教授失踪を疑問視したが、私はその真実を語ることができなかった。そして、私は知ったのである。人が神の領域を求めるとき、そこには必ず代償が伴うということを。
夜毎、夢の中に現れる教授の変異した姿が、私を問い続ける。「あなたは、本当にこの道を選んでよかったのか?」その問いに答える術を、私はまだ見つけられずにいる。恐怖と後悔の狭間で、私はひたすら答えを探し続ける。
教授の叫びは、私の心の奥底で今も鳴り響く。人間が過ちを犯すとき、それは科学の名の下に正当化されることがある。しかし、私たちはその背後にある倫理の喪失と向き合わなければならない。それこそが、私が見た恐怖の真の姿だったのだろう。