異界への誘い

違和感

窓の外に広がる風景は、秋の斜陽に染まる山里の静寂であった。黄昏時の薄明かりが、紅葉した木々の間を縫いながら山腹に広がる集落を包む。その情景は、一見すると穏やかであるものの、どこか不穏な影を落としていた。民家が点在する小道は、昼間でも人通りが少なく、夜になるとさらに静けさを増して、人々は早々に家に入り、戸を固く閉じた。そんな山奥の村に、秋祭りの便りとともに一人の男が訪れた。

彼の名前は佐々木一郎。都会での忙しない生活に疲れを感じていた彼は、何かしらの変化を求めていた。そんな時、ふと目にした旅行雑誌に載っていたこの村の祭りが彼に一時の安らぎを与えてくれる予感がした。雑誌の記事には、祭りの風景がカラフルに描かれていたが、彼が車を降りた時に広がっていたのは、記憶の片隅にある故郷を思わせるモノクロームの情景だった。

村の様子は、過去と現実が入り混じるようで、しかし何かがズレているという漠然とした違和感が一郎を取り巻いた。人々の顔は、ほのかに見知った人物のように思えるが、薄い霧の中にぼんやりと浮かび上がっては消える、そんな不確かな存在感しか持たず、彼の心に疑念を植え付けた。

祭りは日が暮れる頃から始まった。提灯の灯りが村の境内に灯り、太鼓の音が静かに夜気をくぐり抜けていく。だが、その音色にはどこかしら異様な響きがあった。鼓動のように刻まれるリズムは単調でありながら、どこか不調和で意味不明。そんなリズムの中に立っていると、次第に何もかもがどうでもよくなる気がしてくる。それはあたかも、自分の存在が別次元の狭間に入り込んでしまったかのような奇妙な感覚だった。

祭りの中心には、一つの奇妙な像が据えられていた。それは人の姿をかたどっているようで、だが面や四肢は奇妙に歪み、それが人間ではないことを暗示していた。その彫刻の周囲を、村人たちは無言でゆっくりと行進していた。どの顔からも表情が読み取れず、一郎はその異様さに身震いを隠すことができなかった。

ふと、一郎は小さな視線を感じた。振り返ると、幼い少女が静かにこちらを見つめていた。彼女だけがただ一人、無表情の中に微かに何かを訴えかけるものを秘めているようだった。「こんにちは」と一郎が声をかけると、少女は小さく頷き、一言だけ呟いた。「よそ者は、帰る場所を探さないといけないんだよ」

その言葉の意味を一瞬理解できなかった一郎だったが、その夜、宿に戻る途中、奇怪な出来事が彼を襲った。真夜中のこと、彼は目が覚めた。しばらくの間、ぼんやりと天井を見つめていたが、何か音が聞こえた。耳を澄ますと、それは風の音ではなかった。微かに誰かの囁き声。それは人の声のようでもあり、違うようでもある。心地よくもあり、不気味でもある音。それは宿の壁の中を這うようにして、彼の耳に滑り込んで来る。

「帰る場所を見つけよう、ここではないどこかへ」という囁きが混じっているのがわかった時、一郎はまるで冷水を浴びせられたような衝撃を受けた。彼は慌てて部屋を出て、宿を飛び出した。闇夜の村は不気味な静けさに包まれており、明かりもなく、どの家も閉ざされていた。街灯すらもない中で、彼はただ立ち尽くすことしかできなかった。

その時、不意に村の遠くから太鼓の音が再び鳴り響いた。祭りは終わったはずなのに、夜更けに鳴り渡るその音は、まるで沖の孤島からの誘いに似た響きを持っていた。それは再び彼の心を掴み、無意識に足を前へ進ませた。どこかへ行かなければならない、何かを見つけるために。

やがて、一郎の視界に再びあの奇妙な像が現れた。今度は村人たちはおらず、ただ異様な静けさの中に、その影だけが立っていた。その時、再びあの囁きが彼の耳元に届いた。「あなたの帰る場所を見つけたのよ」と。そして、あの幼い少女の顔が彼の頭の中に浮かび上がり、何かが浸透するように彼の内面を侵し始めた。

彼は恐怖を感じる間もなく、ただその場に立ち尽くし、手足の自由が徐々に失われていくのを感じた。奇妙な像の瞳に捉えられたかのように、彼の意識はまるで泥のように沈んでいった。そして最後に彼が目にしたのは、薄暗い月明かりに照らされた、かつての自分に似た朽ち果てた影。

夜が明け、村は再び日常に戻った。観光客の姿は無く、祭りの喧騒も嘘のように消えていた。しかし、あの晩の記憶だけが彼の胸に刻まれ続けている。村の人々は何もなかったかのように日々を送る。その中に、かつての自らの居場所を見失った一郎の姿は、もはやどこにも見当たらなかった。彼が見つけるべき「帰る場所」は最初から存在しなかったのか、それとも今、誰かの心の中で眠り続けているのか。誰も知る術はない。ただ、村の境内には、彼の日常から浮き上がったかのような静穏が今も漂っているのであった。

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