異界に囚われた少女の運命

神隠し

その村には、古くから「神隠し」と呼ばれる現象が伝わっていた。神隠しとは、人々が忽然と姿を消し、数日後、あるいは数週間後に戻ってきたとしても何かが違っているという忌まわしい話だった。

ある年の春、翠(みどり)という少女がその村に引っ越してきた。彼女は都会の喧騒に疲れ、自然に囲まれたこの静かな山村で再出発を試みるため、東京から移り住んだのだった。翠は澄んだ空気と豊かな緑に包まれたこの地を気に入り、ここでの新しい生活を心待ちにしていた。

村人たちは穏やかで優しく、翠を温かく迎え入れた。しかし、彼らの背後にはどこか陰りがあり、時折、翠の存在を憂うような目で見つめることがあった。誰もが昔からの言い伝えである「神隠し」を口にすることはなかったが、その目の中に浮かぶ微妙な不安感は隠しきれなかった。

ある日の夕暮れ、翠は村の奥にある神社へと向かっていた。そこは滝のように落ちる小さな沢があり、神秘的な雰囲気を持つ場所だった。翠はその澄み切った水音に心を奪われ、毎日のように足を運んでいた。

その日は、いつもに増して空が淡い赤に染まり、夕陽が山々を照らしていた。神社の境内には誰もおらず、静寂が辺りを包んでいた。翠はふと何かに誘われるように神社の裏手に回り、小さな祠の近くに足を進めた。すると、そこには見慣れない古い石碑がひっそりと佇み、古代文字が刻まれていた。翠は好奇心からその石碑に触れた瞬間、突如として意識が遠のいていくのを感じた。

目を覚ました翠は、見慣れたはずの神社がどこか違っていることに気づいた。木々は奇妙な形にねじれ、鳥たちは異様な鳴き声を上げていた。空は深紅に染まり、まるで時間が止まったかのように周囲は静まり返っていた。翠は恐怖に駆られ、足がすくむのを感じた。

そのまま茫然と立ち尽くしていた翠の前に、不思議な光が現れた。それは人の形をしており、まるで杉の木のように背が高く、顔はぼんやりとした光の中に霞んでいた。声なき声で何かを囁くその存在に導かれるまま、翠はふらふらと境内を進んだ。

異界で過ごした時間は一瞬だったのか、それとも永遠だったのか。翠は、再び意識を取り戻すと、自分が村の中央広場に立っていることに気づいた。しかし、その夜の月明かりに照らされた村はどこか異質で、言葉にできない違和感が漂っていた。

村人たちは翠を見つけて驚き、彼女を優しく迎え入れた。その夜、翠は村の老人たちが集まる集会で、自分の体験を話した。しかし、彼らはただ静かに頷き、彼女の話を神妙な面持ちで聞き入れるだけだった。

日が経つにつれ、翠は自分が元いた世界とは何かが異なっていることに気づかされた。最も親しくなった村の女の子でさえ、どこかしら人形のように感情に乏しかった。村の景色もやや色褪せ、空気は重く、翠の心に靄がかかるような感覚があった。

急に解体される世界に不安を覚え、翠は村の古老に相談を持ちかけた。彼らは長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。「神隠しは、この世ならざるものによる試練なのじゃ」と。そして、翠はその神秘的な石碑に触れることが、村の異界への扉を開けたことを知った。

翠は、自分が戻ってきた世界が本当の世界なのか、それともまだ異界にいるのか、次第にわからなくなっていった。ある夜、彼女は再びあの石碑を求め、神社へ赴くことを決心した。そこには、暗闇の中で微かに輝きを放っている石碑があった。

心の中にまつわる恐怖と不安を押し殺しながら、翠は石碑に手を伸ばした。再び意識が遠のいていくその瞬間、彼女は確信した。「これが戻るための鍵だ」と。しかし、その考えは甘かった。目を覚ました時、彼女の視界に映るのは、同じようでいて微妙に違う村の景色だった。

翠は理解した。彼女の魂は、異界と現世の狭間に囚われ、永遠にその境を彷徨う運命にあることを。彼女が戻ってきたと思った世界は、戻りつつも何かが欠けた仮初の現実であり、石碑に触れるたびに更に深い霧の中へと自らを追いやっていたのだ。

翠はその後、村の中で幻のように暮らしていった。誰とも心を通わせることはなく、ただ時間だけが意味もなく流れ続けた。村人たちは、彼女がもう戻ることのない異界の住人となったことを知りつつ、静かに見守るしかなかった。

そして、翠自身も自分が何者であり、どこへ向かっているのかさえ忘れていった。ただ、一つだけ確かなことは、もう「元の世界」に戻ることは決してないのだという絶望的な認識であった。彼女が何度も触れた石碑は、もはや元の場所に戻ることを許さない、めくるめく夢幻の連鎖でしかなかった。

そして、翠は今もなお、その異界の境目を彷徨い続けている。どこかでまた神隠しが起こり、新しい誰かが彼女と同じ運命に遭う日を待ちながら。

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