私は非常に懐疑心の強い人間で、これまで幽霊や異世界といった類の話を信じたことはなかった。科学的な根拠がない限り、何でもすぐに否定する傾向があった。それでも、あの日の出来事が本当のことだとしたら、たぶん私の人生に対する考え方が根底から変わってしまうだろう。
それはある夏の日曜日のことだった。その日は朝から暑く、外に出るのも億劫で、家でのんびり過ごす予定だった。だけど、その日の午後、不意に思い立って、古い友人の田中を訪ねることにした。田中は車で2時間ほどの田舎町に住んでいて、最後に会ったのはもう半年も前のことだった。田中は大学時代からの友人で、彼の家は周囲を森に囲まれた静かな場所にあった。
田中の家に到着したのは夕方近くのことだった。田中はその日、ちょうど仕事が休みで、私の突然の訪問を心から歓迎してくれた。彼の奥さんも夕食を用意してくれることになり、私は久しぶりの再会に心が躍った。
夕食を食べた後、私たちは裏庭に出て、一緒に星を見上げた。空は一面の星で覆われており、都会では決して見ることのできない美しい光景だった。その時、田中がふと、最近家の周りで奇妙なことが起きていると話し始めた。
彼の話によれば、夜になると森の中から不気味な音が聞こえてくることがあるという。最初は動物の鳴き声だと思っていたが、どうもそれだけでは説明がつかないらしい。音は時には人間の涙声のようで、時には金属が擦れ合うような音もするのだという。
私はその話を聞いて「もしかして心霊現象じゃない?」と冗談半分で言ってみた。だが、田中は笑わずに、むしろ真剣な顔つきで「そんなことも考えたけど、それ以外にもおかしなことがあるんだ」と答えた。
それから30分ほど、田中は彼の体験した奇妙な出来事について語ってくれた。例えば、外に置いてあった物が翌朝なくなっていたり、夜中に誰もいないはずの庭から人影が見えたりすることがあるそうだ。話を聞いているうちに、私も少し興味が湧いてきて「それなら、一度その音を聞いてみたいな」と言ってしまった。
田中もそれには賛成し、私たちは庭先に椅子を持ち出して待つことにした。時間が経つにつれて、森のざわめきが次第に耳に届き始めた。風に乗って、遠くから何かの音が聞こえてくる。しかし、特異な点は何もなく、結局その夜は何の変わったことも起こらなかった。少しばかり残念に思ったが、普段は聞くことのできない森の音に耳を傾けているのも悪くはなかった。
その後、私は田中の家に泊まることにした。2階の客間に布団を敷いてもらい、疲れからかすぐに眠りについた。ところが、深夜に突然目を覚ました。理由はよくわからなかったが、何か得体の知れない不安感が心を締めつけていた。部屋の中は暗く、窓の向こうからの月明かりだけがわずかに差し込んできていた。
その時、何かが動く気配を感じ、思わずそちらに目を向けた。窓の外、庭先になんとも言えない奇妙な影が浮かび上がっていた。人の形をしているようにも見えたが、何かが違った。影は不規則に震え、瞬間的に消えたり現れたりを繰り返している。「夢だろうか…」私は自分にそう言い聞かせたが、その現象はあまりにも生々しかった。
動けずにそこに立ち尽くしていると、再び例の不気味な音が聞こえてきた。田中が話していた音だろうか。苦しげな呻き声に近く、しかし言語化できない異質な響きがあった。背筋が凍るような恐怖感が私を襲い、呼吸が苦しくなった。
その時、突然窓に顔が現れた。目が合った瞬間、全身の血が凍った。正確には「顔」に似ていた何かだった。目に見えない底知れぬ闇がそこにはあり、全てを呑み込もうとしているようだった。私は思わず声をあげそうになったが、何とか耐えた。ドアを開けて部屋を飛び出し、田中の寝ている部屋へ駆け込んだ。
田中を叩き起こし、私はうわ言のようにさっきの出来事を話した。彼もまた驚愕したが、自ら庭に出て確認してくれた。しかし、そこには何の変化もなかった。ただ、森から聞こえてくる音は依然と変わらず続いていた。
その夜は結局、一睡もできなかった。朝が訪れると、私たちは点検の意味も兼ねて、改めて庭と森の境界を調べに出かけた。特に異常は見つからなかったが、ふと一箇所に奇妙な石が積まれているのを見つけた。自然の風景には不釣り合いなその石の配置に、私たちは互いに無言で首を傾げた。
その石の周りを詳しく調べると、古い木製の箱が埋まっているのを発見した。私は何故かその時、箱を開けることに激しい抵抗を感じた。それでも田中は、「ここまで来たら何が入っているのか知りたい」と言い、その言葉に後押しされ、私は箱を掘り起こした。
中には古びた日記が一冊入っていた。表紙は擦り切れており、中のページもところどころ破れていた。私はそこで読むのを躊躇したが、好奇心がそれに打ち勝った。ページをめくると、すぐにある男性の日常が断片的に書かれているのがわかった。読むにつれて、その内容の異様さに気づいた。彼は頻繁に「次元の裂け目」や「向こう側の住人」といった、理解を超えた奇妙なことに言及していた。
その日記を書いた人間が一体何を見たのか、私には到底理解することができなかった。ページを読み進めるごとに、私たちはとてつもない絶望感を覚え始めた。「ここにいてはまずい」直感がそう告げていた。この場所には何かが潜んでいる。何か不安定で、危険な存在が。
結局、私はその日記を家に持ち帰ることにした。田中も同意し、もう一度何か問題が起きたら、改めてこのことを詳しく調べることにした。しかし、私たちは既に目に見えない「何か」に触れてしまったのかもしれない。あれから田中とは度々連絡を取っているが、一度としてあの時の不可解な経験を超えることはなかった。
ただ、それ以来私の目にする光景のすべてがどこか現実味を失っているように感じるのは、気のせいなのだろうか。誰の元にも訪れないと信じていた「異次元」が、確かに存在し、私たちの世界を包み込んでいるのかもしれない。今でも時折、あの異様な顔が夢に現れるのだ。それが本物か否かは、いまだわからないままだ。