静かな街の片隅に立つ、年老いた屋敷の存在に気づく者は少ない。潮風に晒され、時の流れに取り残されたかのようなその建物は、複雑に絡まった植物が石壁を覆い尽くし、遠くから見るとまるで自然に還ろうとする意志を持っているかのようだった。外観は時代の風雨に耐え忍んできた証を見せていたが、それでも内部にはまだかつての栄光の欠片が残されていた。
ある日、その屋敷の前に一人の若者が立っていた。彼は名を進といい、とある地方の大学で心霊現象について研究している学生であった。教授からある資料を探すように命じられ、この屋敷を訪れることになったのである。だがその教授が口にしたのは、何も資料を探すためだけではなかった。「異次元の存在」という奇妙な言葉もまた、彼の胸中に引っかかりを残していた。
夕闇が迫る頃、彼は屋敷の大きな扉を押し開けた。まるでこの瞬間を待ち構えていたかのように、冷めた風が彼の頬を打ち、古い木々の軋む音が響いた。進は意を決し、薄暗い廊下を進んでいく。壁には奇怪な絵画が並び、そのどれもが視線をずらし続け、見る者を捉えて離さない。どこか異様な魅力があり、それに引き込まれてはいけないと彼は自ら戒めた。
さらに奥に進むと、異様な静寂が広がっていることに気づいた。外の世界と隔たれたこの場所は、全く人の気配を感じさせず、まるで時が止まったかのようだった。彼はふと、教授の言葉を思い出した。「あの屋敷には、普通の世界とは違う何かがある。それを確かめに行ってくれ」。進の中に一抹の不安が広がる。
彼は階段を上がり、二階の部屋に足を踏み入れた。そこで彼を待っていたのは、一冊の古びた日記だった。埃を払い、そっとページをめくると、そこには過去の住人たちがこの屋敷で体験した不可解な出来事が事細かに記録されていた。「異次元への扉が開かれる……」。その一文を見た瞬間、彼の背筋に冷たいものが走る。何かが起こる予感に駆られた彼は、無意識に日記を閉じる。
しかし、次の瞬間、部屋全体が微かに震動した。進は心臓が凍るような感覚に襲われ、辺りを見回した。何かが動いている、確かにそう感じたのだ。それは目には見えぬが、確かに存在する。彼の周りには、次第に不可思議な霧が漂い始め、その中で何かが囁く声が聞こえる。それは耳には届かぬが、脳裏にはっきりと響いていた。「お前を見ている……」
廊下に戻ると、霧が更に濃く、あたかも彼の行く手を阻むように流れていた。階下へと駆け下りるも、どこをどう進んだのか、すでに自分がどこにいるのかわからなくなる。屋敷の構造が歪み、自分という存在ごと異なる次元に引き込まれていくような、現実感を失う恐怖が彼を襲う。
やがて、進は一室にたどり着いた。そこで感じたのは、この世のものとは思えぬ圧倒的な存在感。目を見開き驚愕する彼の目の前には、黒く深い虚無が広がっていたのだ。それは「存在する」とも「存在しない」ともつかない、何かしらの境界を越えたものだった。彼はそこに吸い込まれそうになりながら、一歩踏み出した。
その瞬間、彼の脳裏に無数の景色が飛び込んできた。緑豊かな森林、しかし狂気に満ちた瞳を持つ獣たち……、青く澄んだ海、それでもどこか不吉を漂わせる静謐。それら全てが、一瞬で彼の心を打ち返し、理解の及ばぬスケールで彼を飲み尽くした。日常のわずかな枠組みを飛び越え、彼の存在自体が問い直されるような感覚に囚われる。
進は息を詰めた。だが、その恐怖の極みの中で、彼は奇妙な悟りを得る。これらの光景は全て、異次元の存在たちが人の住む世界を垣間見ている姿、それ自体が彼に伝えたい何かであることに気づくのだ。だが、それでも人間には決して理解できるものではない、彼はそのことを思い知らされる。
やがて霧が晴れ、再び静まり返った屋敷に彼だけが残された。彼は疲れ果てた身体を引きずって玄関を出ると、外の新鮮な空気が彼を迎え入れる。だが、彼の胸には削り取られた心の欠片とともに、決してふさがることのない恐怖の狭間が残っていた。
進はもう二度と、その屋敷に足を踏み入れることはなかったが、それでも彼は知っている。異次元の扉は、いつでもその底知れぬ闇で彼を待ち続けていることを。その不安と絶望を携えて、彼は再び日常の中へと戻っていくのだった。しかし心の奥底で、彼は知っていた。どこに逃げようとも、その視線は決して途切れることなく彼を追い続けているのだと。