井の頭公園のベンチに腰かけ、紅葉の始まった木々を眺めていた陽介は、日常の忙しさから解放されるこの一瞬を何より楽しみにしていた。いつものように、温かいコーヒーを片手に持ち、平日の午後にしては賑やかなこの場所に身を委ねていた。しかし、その秋の日差しの柔らかさとは裏腹に、突如として彼を包む奇妙な違和感を覚えることとなった。
視界の隅をよぎったものに目を向けると、それはまるで見知らぬ風景の一部のようであった。何もかも、普段見慣れた光景からわずかにずれている。木々の間に立ち尽くす古びたランプが、そこにあるはずのない場所にたたずんでいる。陽介は思わず目を凝らした。確かめようと一つ深呼吸をして視線を戻すと、そのランプは影となり、再び既知の風景へと溶け込んだ。まるで、彼の心がほんの一瞬悪戯をしたかのように感じた。
「そんなはずはない」と、独り言ちたところで、あまりに奇妙なそれに気もそぞろな陽介は、少し歩くことにした。公園の小道を進みながら、彼はどこかいつもと異なる外界に向けて、注意深く耳を澄ませていた。だが、鳥のさえずりが心地よく響くばかりで、いつもの日々の残響に満たされている。
自宅に戻った陽介は、リビングに置かれた新聞に目を移した。何気なく見開いたその紙面には、小さな記事が載せられていた。「公園の古い時計塔、着工予定」との見出しが目に飛び込む。その一文を読み進めるにつれ、彼の中で奇妙な感触が膨らむ。書かれている場所は、午前中に彼が目撃したランプの立っていた辺りであることに、彼は気づいた。
だが、それだけのことだと、陽介は自らを納得させようとした。もしかしたら、ただの勘違いかもしれない。しかし、その夜、陽介はいつもより浅い眠りの中に沈まざるを得なかった。そして夢の中で、彼はさらに一段と不確かな風景を彷徨い歩いていた。
翌日、職場に向かう道すがら、陽介はふと目を上げた。立ち並ぶビルの傍らに、いつの間にか新しいカフェがオープンしているのを見つけたのだ。今まで見たこともないカフェの外観に一瞬當惑しつつも、彼は興味本位でその扉をくぐった。内部は小洒落た雰囲気で、カウンターの向こうには穏やかな笑顔をしたバリスタが立っていた。
しかし、何かがおかしい。そのカフェは、通り過ぎることはあっても実際に立ち寄った記憶はなかったはずだ。陽介の思念は再びめまぐるしく回転をし始め、胸中に渦巻く違和感が膨れ上がった。彼はその場を立ち去り、急いで職場へと向かった。
オフィスでの業務を終えた後、帰宅する時間になると、陽介の中には疲労と共に、得体の知れない不安が漂っていた。家に帰る道すがら、彼は深呼吸をし、本を広げたまま机に伏し眠ってしまった。
翌朝、彼はふと何かの物音で目を覚ました。時計の針はいつもの時刻を知らせず、すでに朝の十時を指していた。机の上には、今まで記憶にない書類が広がっている。それを手に取ると、そこには見覚えのある自分の筆跡で、見覚えのない内容が書かれていた。目も覚めるような寒気が彼の背中を走り抜ける。
陽介の周囲の日常は、いつの間にか崩壊の兆しをじわじわと漂わせ始めていた。その日は仕事を休むことにし、公園のベンチに再び腰を下ろした。午後の陽ざしが柔らかく地面に影を作り、周囲の人々は平穏そのものの姿で日々を過ごしている。しかし、彼の心は、その平穏を映し出すにはあまりに重い。
ふと、彼の意識は、また異なるものに引き寄せられた。目の前の木立の中に、一瞬、昨日のカフェの姿が浮かび上がるのを見たのだ。その存在は一瞬で消え、再び目の前には何もない空間が広がる。
陽介は立ち上がり、歩き始めた。公園を出て馴染みの通りを進むにつれ、見覚えのある店や建物が徐々に変貌し始める。何年も通っていたはずの商店街には、知らぬ間に様々な店が入り混じり、面影を消していた。
彼の心は徐々に理解を拒み、戸惑いの中で震えていた。それは徐々に侵食されていく現実と、時折垣間見る幻によるものだった。自分の知っている日常が崩壊していく恐怖とともに、彼はこの世界が何で成り立っているのか、根本的な疑問に駆られていたのだった。どこまで彼の見ているものが現実で、何が幻なのか、時間とともにその境界は薄れ、彼を追い詰めていく。
しかし、夜が訪れる度に夢の中で彼は、かつての風景を繰り返し見ることとなった。夢の中の景色は鮮やかで、現実と逆転しているかのような感覚を覚えさせた。気付けば彼は、その夢の景色こそが本物であると、現実への帰還を拒み始めた自分に気づいていた。
そしてある日、朝目覚めると、そこには再び書き散らされた書類が散乱していた。破れ、擦り切れたその紙片には、公園や時計塔、消えたカフェ、その全てが自分の手によって書き記されている。彼は、自分が何を見て、何を信じるべきかを少しずつ見失っていく恐怖に顔を歪めた。陽介の日常は、ついに面影を残さず、その輪郭すら崩れ去ったのだった。
「この先、何をどう感じても、それが真実かどうか分からない」と、陽介は静かに呟いた。徐々に霧の中へと飲み込まれる幻影のように、彼は現実と幻の狭間で足をとられることとなった。それでもなお、彼はふらふらと歩き続ける。彼が目指すのは、消えゆく日常の中に一瞬見えた、あの不確かな安息の影である。彼に残された微かな希望は、いつの日かその地にたどり着くことを信じ、なお歩み続けることだけだった。