深夜の闇は、その日も濃密で重々しく、窓の外から流れ込んでくる音さえも、不自然な静けさの中で異質に聞こえた。街灯がほのかに照らす街路樹の影が揺れる様子は、まるで不気味な舞踏を踊っているかのようで、窓際に座り込んでいた遥はその暗闇に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。
彼女の家は、都心から外れた閑静な住宅街にあり、一見すれば平穏そのものの環境だった。しかし、遥自身の心中には、いつの頃からかじわじわと広がる不安が巣食っていた。その不安の正体を彼女は明確に捉えることができず、ただ日々を追われるように過ごしていた。
すべてが変化し始めたのは、あの誕生日の日だった。親しい友人たちが集まってくれたにぎやかな夜から一転して、部屋が静寂に包まれたとき、彼女は深い孤独感に襲われた。遠ざかる笑い声が耳に残り、プレゼントの山が取り残された舞台の遺物のように感じられた。
それからというもの、彼女は日常生活に微妙な違和感を抱くようになった。例えば、朝の通勤電車で隣に座る人々の顔が、時折知り合いや亡くなったはずの祖母の顔に見えてしまうことがあった。だが次の瞬間にはまた見知らぬ他人の顔に戻っており、それを誰に話しても信じてもらえないだろうという確信が彼女をさらに孤独に追い込んでいった。
職場でも、彼女の心は安らぐことがなかった。彼女が秘書として働くオフィスの上司は冷淡で、何かしらの期待を裏切るたびに侮蔑の視線を投げかけてくる。遥はその視線が彼女の魂を観察し、その内にある狂気を暴こうとしていると感じ、次第に彼の存在自体が恐怖の象徴となっていった。
ある日、彼女はオフィスの休憩室で一人、コーヒーを片手に窓の外を眺めていた。その瞬間、ぼんやりとした視界の中に黒い影がよぎった。それは何の変哲もないカラスだったが、彼女の背筋を冷たく撫で付けた。その後も、職場近くで何度もそのカラスを見かけるようになり、そのたびに心がざわめいた。カラスが彼女を見つめ返す瞳の奥に、なぜか彼女自身の顔が見える気がしたのだった。
休日の朝、遥は普段あまり利用しない公園を徒歩で訪ねることにした。そこで彼女は、まるでずっと待ち受けていたかのように佇む少女と出会う。少女は一輪のバラを口に咥え、不思議な微笑を浮かべながら、「久しぶり」と呟いた。それはあたかも、二人が以前どこかで出会ったことがあるかのようなふるまいだった。
その言葉は遥の心を一瞬、暗い闇の中に引きずり込んだ。どうしてこの少女が彼女の名前を知っているのか、何故会った覚えのないはずの彼女に懐かしさを感じるのか—考えれば考えるほど、それは彼女の哀れな心を乱し、混乱させていく。目を逸らし離れようとした瞬間、少女は悲しげな声で追いかけてきた。「あなたは忘れてしまったのね。」その言葉は深い底なしの淵のような孤独を、彼女の心に再び呼び覚ました。
数日後、職場で彼女の業務はいつになく立て込んでおり、書類の山と電話の応対に追われていた。なんとか昼食休憩を取ろうとしたとき、彼女の机に置かれている一枚の写真を見つけた。そこには、あの公園で出会った少女の姿が写っており、彼女の心は一気にざわついた。だが、すぐに写真をどうにかして破り捨てようとする衝動に駆られるものの、どこか現実感のない浮遊感に囚われ、その手が震えて動かなかった。
写真を見つめる彼女の視界は次第にぼやけ、気が付くと薄暗い部屋の中で目を覚ましていた。部屋の壁には、無数の少女の写真が貼られ、その全てが彼女を見下ろしているようだった。まるで、その少女たちが彼女の罪を暴き裁くかの如く、彼女の心に問いかける。「あなたの中に潜む邪悪を、もう隠し通すことはできないのよ。」
その晩、彼女の精神の限界は崩壊の淵に達し、幻覚と現実の境界が完全に溶け合った。彼女は家の中を右往左往し、取り乱した声で誰にともなく語りかけ、鏡の中に幻のような少女の姿を見つけた。もはやその姿が自分自身の分身であることを否定できなくなったとき、彼女はその狂気に満ちた光景の中で静かに言葉を紡いだ。「すべては私の中にあるのだ」と。
翌朝、彼女が目覚めたとき、彼女の心はまるで澱んだ水の中に沈んだかのように、何も感じ取ることができなかった。彼女は動き始めた機械のように淡々と日々を過ごしつつ、もはや現実と夢の世界を区別することなく生き続けた。周囲の人間も、彼女の心の闇に気づくことなく、日々の流れに流されていく。
遥の心に蔓延る狂気は、ますます彼女を現実から引き剥がし、永遠に続く空虚の中へと彼女を追いやる。しかし唯一残された望みは、どこかでその異変の終わりを彼女自身が見つけることができるのではないかという漠然とした期待だった。
そして、彼女は再びあの少女の幻影を追い求め、夢の中で果たして出会うことができるかどうか、不確かな願いに憑りつかれながら、永遠の夜を彷徨い続けるのだった。彼女の内なる狂気がすべてを支配し尽くすまで。