村の北に位置する山道は、夜が深まるとひときわ薄気味悪い雰囲気を漂わせていた。そこには古くから「消えの道」と呼ばれる伝説が伝えられていた。夜にそこを通った者は帰れない。いや、帰ってきたとしても、何かが違うというのだ。
ある雨の降る晩、俊一という青年がその道を通ることになった。仕事帰りの時間が思いのほか遅くなり、急ぎ足で帰宅を急いでいた。彼はその道を通りたくはなかったが、他に帰宅の手段がなかった。葉が水滴を溜め、重たそうに垂れ下がっている樹々の間を抜けると、いつの間にか霧が立ちこめてきた。視界がぼやけ、彼の心に不安が芽生えた。
進むにつれ、耳をつんざくような静寂が彼を包んだ。息を潜めているかのような自然の音に、彼は思わず足を止めた。漆黒の闇の中から、微かな足音が忍び寄ってくるような気がする。俊一の心は不安で一杯になり、その足音に耳を澄ましたが、周囲には何も見えなかった。雨音すら吸い込むような静けさに、彼は視線を彷徨わせる。
彼が一歩を踏み出すと、足元を駆け抜ける冷たい風が彼の身体を貫いた。それはまるで、誰かがすぐ背後に立っているかのような錯覚だった。振り返る勇気もなく、彼はただ前を見据えて歩みを進めた。しかし、心のどこかで、その道が日常と異なる世界へと通じているように感じ始めていた。
やがて、霧の中にぼんやりとした光が見え始めた。それは遠くの村からの光ではなく、どこか異界からの灯りのように思えた。俊一はその異様な光景に惹きつけられるように、ふらふらと歩み寄った。
光が強まるにつれて、彼は気がついた。その光は、何百もの無数の小さな灯りが集まったものであり、まるで彼を歓迎するかのように瞬いていた。灯りの中心には、古びた木造の鳥居が立っていた。それは村の神社とは明らかに異なる、不気味で異形の鳥居だった。
俊一は吸い込まれるようにその鳥居をくぐり抜けたとたん、風景が激変した。目の前には幻想的な風景が広がり、夜空は星々で埋め尽くされ、地上には見慣れない花々が咲き乱れていた。その美しさは息をのむほどだったが、どこか現実離れしていた。
「おいで…おいで…」かすかな声が彼の耳元を掠めた。振り返ると、そこには人影が立っていた。顔のないそれは、ただ真っ直ぐに彼を見つめているようだった。俊一は恐怖で声も出せず、その場に立ち尽くした。
彼が再び正気を取り戻した時には、鳥居の向こう側に戻ってきていた。しかし、霧が晴れることはなく、相変わらずの静寂が場を支配していた。足早にその場を立ち去りたかったが、身体が思うように動かなかった。俊一は仕方なく、元の道を引き返すことにした。
村に戻ったのは、それから数時間後のことだった。しかし、彼が目にしたのは、異様なまでに静かな村の姿だった。誰一人として、彼に声をかける者はいなかった。少年たちが遊ぶ姿もなく、いつもの賑わいが消え失せ、まるで時が止まっているかのような静けさだった。
家に辿り着き、家族の顔を見ようとしたものの、どこか様子が違っていた。振る舞いは普段と変わらないが、何かが別物に成り代わっているように感じた。彼の部屋に飾ってあった写真の中の顔まで、微かに不自然な笑みを浮かべているようだった。
俊一は日常に戻ろうと努力したが、全てが夢であったような感覚に苛まれ続けた。時折、彼の耳には、あの時の「おいで…おいで…」という呼び声が蘇り、彼を異界へと誘い込もうとするかのようだった。
それから数日後、ついに俊一は姿を消した。家族は彼を探し続けたが、その姿を見つけることはできなかった。ただ、村の北の山道には、彼が必死で押し返そうとした霧が漂っていたという。
村は再び日常を取り戻し、俊一のことも過去の話になりかけていた。しかし、「消えの道」の噂は永遠に続く。俊一が本当に異界に取り込まれたのか、それとも何かの罠に囚われたのか。それは誰にもわからない。ただ、そこを通った者は誰も、二度と同じ目を持つことはできないという。そして、もしもその者が戻ってきたときには、きっと全てが少しずつ変わっているのだろう。声に出してはいけない、触れてはいけない、不気味な違和感とともに。