消えたサラリーマンと怪しげなバーの噂

都市伝説

噂によれば、彼の名前はタカシというらしい。そして彼が経験した恐ろしき出来事は、夜の帳が降りるころ、ひっそりとしたバーで語られる都市伝説として、今も静かに囁かれている。

タカシはごく普通のサラリーマンだった。勤め先は都心にある小さな広告代理店。決して裕福ではないが、妻と幼い息子とともに慎ましやかに幸せを築いていた。ある日、会社の帰りに何気なく立ち寄ったBARで始まった異変は、そのささやかな日常を徐々に崩していく予兆となった。

そのバーは、まるで時間の流れを無視するかのように静寂が支配する場所で、カウンターに並ぶ椅子は古ぼけ、木製の床はキシキシと音を立てた。タカシはいつものようにバーボンを注文し、静かに音楽に耳を傾けていた。店のマスターは無口で、客も少なかった。タカシは何も考えず、その居心地の悪さもまた一興と、杯を傾けた。

そのとき、彼の隣に座っていたスーツ姿の中年男が、ぼそりと声をかけてきた。

「こういう静かなところで飲むって、なんだか現実から逃避してる感じがしない?」

タカシは軽く笑いながら頷いた。男の顔はどこか疲れているようで、目の奥には深い闇が潜んでいるように見えた。

「俺はね、このバーが好きなんだ」と、男は次第に口を開く。「ここには、捨てられない秘密が隠されてるらしいよ。」

男の抑揚のない声に不気味なものを感じつつも、タカシは話の続きを求めるように酒をすする。男は微かな笑みを浮かべ、小さく囁いた。

「ある夜、このバーで酒を飲んで帰ろうとしたら、いつもの道がどこかおかしく感じたことがあるんだ。どう説明していいかわからないけど、何もかもが少しずつズレているような・・・そんな感覚だ。道は変わらない、でも、歩くたびに背筋がぞくぞくってね。あれが最初だった。」

タカシは、薄暗がりの中でその男の目が一瞬、異様に光ったように見えた。気のせいだ、自分に言い聞かせる。だが、心の奥底に芽生え始めた不安は拭い去れない。

バーを出ると、果たして、何かが違う気がしてきた。いつもの帰り道、一歩一歩何かが後ろにいるような気配に追われながら、家路を急いだ。やがてマンションのエントランスに着く頃には、その気配はぴたりと彼に張り付いていた。

妻と息子が眠る部屋に入ると少し安心感を取り戻し、タカシはその日を終えた。しかし、彼の心に巣食った不安は消えなかった。それから数日後のこと、タカシは再びそのバーに立ち寄る。今回の男は現れなかったものの、酒とともに不安は増幅される。

その夜、遅く家に帰ると妻が静かに話しかけてきた。「あなた、最近変な夢を見るの。」と。しかし、それは単なる夢ではないことを、彼らはまだ知らない。

妻が見た「夢」の中で、タカシは彼女を置き去りにして暗い森の中を走っていたという。何かが彼女を追ってくるのを知っていながら、一度も振り返らなかったと。その後ろ姿に込められた恐怖と狂気の具現化は、彼女の脳裏に焼き付いていた。

「ごめん。」とだけ言ってタカシは寝室を出た。自分にも説明がつかない得体の知れない罪悪感に苛まれながら、彼は再びバーに向かった。あの男がいなくとも、救いがあるかもしれないと何故か思った。

バーは相変わらず薄暗く、タバコの煙がゆらゆらと漂う中にいると、まるで別の世界に引き込まれたかのような安心感があった。タカシはグラスを重ねながら、いつものようにカウンター越しの無口なマスターに話しかけた。「ここには、本当に何か変わったことがあるんですか?」

マスターは黙ったまま、古ぼけたグラスを磨き続けた。返事はない。しばらくしてから、「ここにいる時間が長ければ長いほど、外の世界が遠ざかって行く。それだけだ。」と言って、微笑んだ。

タカシは酒精に酔い、帰ろうとしたが、むしろこの場に留まりたいという不思議な感覚に囚われた。結局、夜遅くにバーを出ると、静寂は孤独の重さを増すばかりだった。

その夜、タカシもまた夢を見た。それは決して本人の意識が創り上げた幻想ではなく、現実の延長線上に広がる漆黒の領域だった。彼は闇に溶け込むようにして森の中を走った。目の前には背中を丸め顔を覆った自分の家族、追い縋るような影、遠く囁くような声──もはや現と夢の区別は曖昧となり、彼は一人部屋で汗に濡れ目を覚ました。

翌日の朝、妻は不安げにタカシを見つめたまま、言葉を発しなかった。ただ、彼の内側で何かが確実に変わってしまったことを、彼女は肌で感じ取っていた。

そしてその晩、タカシは行ってはならないと知りつつもバーに足を運んでしまった。まるで引力に引き込まれていくようだ。無言のまま酒を注ぎ足すマスターに漂う狂気と共に、彼自身も次第に囚われていった。

彼はついに、その幻影と現実が曖昧に交差する中で自分の存在が次第に薄れていくのを感じ始めた。家には帰らなかった。どこへ行くべきかも分からず、ただひたすらに歩き続けた。

そうして今、誰も彼の行方を知らない。都市の闇に消えたという。不確かな噂は、あのバーを訪れる他の客へと語り継がれていく。そして、その話を聞く度に人々の中に芽生える、説明のつかない不安。それが誰にも解き明かすことのできない、そのバーに纏わる物語なのである。タカシの話を耳にした者は誰しもが言葉にできない恐怖を感じ、あの場所とは異なる静けさを求めて心を閉ざすのだった。

ただ、バーそのものは今もなお、静かに営業を続けている。

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