永遠に囁く森の伝承

妖怪

深い山あいの村、名もなき場所に古い寺があった。その寺は、幾度もの戦乱を乗り越え、時間と共に少しずつ風化しながら、今もなお人々の信仰を集めていた。秋の夕暮れ、日が沈むと村はひっそりと静まり返る。村人たちは、朝晩の作業に追われた体を休めるため、早々に灯かりを消して床に就く。

しかし、その夜だけはそうではなかった。寺から少し離れた森に、奇妙な音が響くのが聞こえた。それはまるで誰かが悲鳴をこらえるような、切ない声であった。村の中でもその声を知る者は少なく、ただ神聖な領域として近寄る者は皆無であった。

翌朝、村の青年、賢二が古寺の住職を訪ねた。彼は若く、勇敢で何事にも興味を持つ性格だった。住職は、木彫りの仏像に向かって祈りを捧げていたが、賢二の訪問に気づくと、微笑みながら向きを変えた。

「昨夜の声、お聞きになりましたか?」と賢二は尋ねた。

住職は静かに頷いた。「あの声はこの山が誇る妻帯者。昔、一度人の目に留まったことがあったが、その姿を見た者は皆、恐れから逃げ出したという。村の者には近づかぬよう、言い伝えられている」と、住職は古い言葉で話した。

「しかし、その正体は何なのですか?」賢二は尋問を重ねた。

住職は目を伏せて、「正体を知ろうとする者は多い。しかし、知る必要はない。ただ、そこに在るという事実があるだけだ」と答えた。

賢二はその晩、寝付きが悪く、長い夜を過ごした。頭の中には昨夜の声が響き続けていた。彼は好奇心を抑えきれず、ついに心を決めた。翌日夕方、賢二は古寺に向かう途中で住職に再び会った。

「どうしても行くつもりなのか?」住職は問いかけた。

「はい、何がそこに在るのか知りたいのです」と賢二は毅然と述べた。

住職はしばらく考えた後、賢二の手に小さなお守りを渡した。「これを持っていけば、君の心は守られるだろう」と彼は言った。

賢二はお守りを手に持ち、そのまま深い森へと足を進めた。月明かりがわずかに彼の足元を照らす中、木々のざわめきが彼を迎えた。賢二の心は昂ぶりと不安で揺れ動いたが、それでも彼の脚は止まらなかった。

しばらく歩くと、風に乗ってあの声が再び聞こえてきた。それは彼の周囲を回り、頭の中に響くようであった。賢二はお守りを握りしめ、声の方へと向かった。

突然、彼の目の前に古い祠が現れた。それは長い年月を経たものであったが、異様な存在感を放ち、賢二の心を引き寄せた。その時、彼は祠の前に何者かの気配を感じた。そこに佇むのは、古びた着物をまとった女の姿。

その目は真っ黒で、表情は悲しげに見えた。賢二は動けず、その場に立ち尽くした。女は彼に向かって何かを囁くようだったが、言葉は届かなかった。彼の体は氷で固められたように冷え、動くことができなかった。

すると、女はそっと手を賢二に差し伸べた。その動作はゆっくりと、まるで彼を招くようであった。賢二は彼女に手を伸ばそうとしたが、心の中で違和感を覚えた。その瞬間、彼の持っていたお守りが強く輝き、彼の手元に温かさを感じさせた。

その光の中で、女の姿は薄れ、次第に消えていった。彼は目を見開き、周囲を見渡したが、以前のように森しか見えなかった。賢二は急いでその場から離れ、村まで一目散に駆け戻った。

彼は再び寺を訪れ、住職にすべてを話した。住職は微笑み、「お守りが君を守ったのだな。それは、彼女の悲しみに惑わされることなく、帰ってこれた証だ。この伝承は人の心を試すものだ。欲と恐れに負けたとき、人は影に囚われる」と、深い声で語った。

その日以来、賢二は二度と森に近づけなくなった。その経験は彼の心に深く刻まれ、村人たちにもやがて語り継がれるようになった。そして、あの古寺は、時が経つにつれ、人々の記憶と共に朽ちていくのであったが、その伝承だけは静かに生き続け、新たな訪問者を待ち続けている。

タイトルとURLをコピーしました