森の井戸と祖母の記憶

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子供の頃、私は祖父母の家によく泊まりに行っていました。田舎の小さな村にある古い家で、周囲は森に囲まれていました。その静かな環境は、都会育ちの私にとって新鮮で、同時に少し不気味な雰囲気を醸し出していました。

ある夏の日のことです。私は両親と共に祖父母の家を訪れました。夜が更けると、両親たちはビールを飲みながら以前の思い出話に花を咲かせていました。退屈な私は、一人で外に出て庭を歩き回ることにしました。月明かりが庭を照らし、まばらに立つ木々の影が奇妙な形を作り出していました。その時、ふと森の奥から微かに声が聞こえたのです。

「おいで…」

声は小さかったですが、確かに誰かが呼んでいるようでした。子供の好奇心に勝てず、私は声のする方へと足を進めました。再び声が聞こえました。

「こっちだよ…」

まるで古いレコードのように、歪んでいて、それでいてどこか優しい響きだったんです。私は少し怖くなりながらも、その声に引き込まれるように森の奥へと進んでいきました。

足元の枝が折れる音を踏み越えつつ、進んでいくうちに、どうしてこんなことをしているのか自分でも分からなくなっていました。でも、声は更に奥から聞こえてきて、妙に心地よさすら感じていたのです。

どれくらい森の中を歩いたか分かりませんが、急に視界が開けました。そこは小さな草原のような開けた場所で、月の光が一面に降り注いでいました。そして、その中心には古びた井戸がポツンと立っていたのです。私はその光景にひどく驚きました。村の人々からは聞いたこともない場所だったからです。

そして、何より驚いたのはその井戸の脇に立っている人影でした。影は私に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げました。それは女性の姿をしていて、白い服を身にまとっていました。月明かりが彼女の顔を照らした時、私はその顔に凍りつきました。彼女の目には何も映っていないように見えたのです。私は声を出すこともできず、その場に立ち尽くしてしまいました。

「来てくれたのね…」

彼女は静かにそう言うと、私に手を差し伸べました。その声は、確実にさっき森の中で聞いた声と同じでした。私は恐怖で動けずにいましたが、次の瞬間、背後から誰かが私の肩を強く引っ張り、目の前が暗転しました。

目を覚ました時、私は祖父母の家の居間で寝かされていました。どうやら、ずっと夢を見ていたのかと思いました。しかし、夢にしてはあまりにもリアルで、まだ心臓が高鳴っていました。

その朝、私があまりにも不思議な表情をしていたためか、祖父が心配して話しかけてきました。私は恐々と昨晩の出来事を話しました。祖父は少し悩んだ表情をした後、静かに語り始めました。

「君が見たのは、お婆さんの若い頃かもしれないね…」

祖父によると、昔、井戸の幽霊についての噂が村にはあり、その幽霊は村を出た人々を故郷に呼び戻すために現れるのだという伝説があったそうです。私の祖母もかつて村を出て、町でしばらく生活をしていたことがあるとのこと。でも、何かがあって村に戻ってきたというのです。

その日の午後、私は好奇心に駆られ、祖母にその話を話すと、彼女はしばらく無言で微笑みました。そして、祖母は私の手を優しく握りしめ、静かに言いました。

「君が無事でよかった。本当に来ちゃダメな場所ってあるのよ。」

その言葉には何か深い思いが込められているようで、私はそれ以上何も聞くことができませんでした。結局、祖母の過去は、そのまま私たちに語られることはありませんでしたが、あの森の井戸に纏わる出来事は、今でも私の心に強く残っています。

祖父母が亡くなって久しい今、私はあの村に足を踏み入れたことはありません。でも、井戸で経験した不思議な出来事と、祖母が最後に微笑みながら話してくれた言葉は、決して忘れることはないと思っています。今になって思えば、それは祖母から私へ贈られた、大切なメッセージだったのかもしれません。私たちは時に、見えない力によって守られているのだと信じています。

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