人間の心の深層に潜む闇、その底知れない狂気が今、この物語を紡ぎ始める。舞台は、ある古びた田舎町、丘を越えた先にひっそりと佇む村。人々は和やかに農作業に勤しみ、初夏の穏やかな風が田園を通り抜ける。その名も忘れ去られたこの村には、恐ろしい噂が囁かれていた。
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森の奥深く、陽が沈むとともに濃い霧が立ち込め、誰もが足を踏み入れることを恐れる場所がある。そこに佇む彼女の家は、枯れた木々に包まれ、時間の流れから断絶されたかのように静かにその影を落としている。彼女、夜叉という名の老女は、村人たちから狂気の人食い魔女として恐れられていた。
だが、本当に恐れていたのはその噂ではなく、夜叉が目撃されたという証言の数々。村を流れる細い川の畔で、時折人々は彼女がその鋭い眼光でこちらを見据えているのを見たと囁く。そして、その翌朝、必ず一人の村人が姿を消すのである。
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「おい、夜になったらあそこの森に近付くなよ、命が惜しいならな」
村の若者たちは冗談交じりに、森を指差しながら自らを戒めた。「夜叉に食われるぞ」と顔をしかめるが、誰も本当に危害を加えられた者を知らない。ただ、消えた人々が二度と戻らない事実が、何よりも恐ろしい証拠だった。
ある満月の夜のこと、村一番の無鉄砲者であった良山は、飲み会の疲れを癒すべく川辺に寝転がっていた。その眠気の中で、微かに聞こえる歌声に耳を傾けた。美しく、儚げなその旋律は、どこか懐かしさを感じさせた。しかし、その裏には得も言われぬ不穏さが漂っている。
良山は立ち上がり、意識する間もなくその音の源を求め、ふらふらと森の中へ歩み始めた。何度も止めようとしたが、その未知の魅惑に勝てなかったのだ。
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森の中は、月明かりが頼りない輝きを放ち、影が幾重にも重なる幻想的な風景が広がっていた。音は彼を導く糸のように、まっすぐな道を示す。やがて、彼はある堂々たる古樹の前に立っていた。そこには、老女が丸太の上に腰かけているのが見えた。
「お前か、私を訪ねに来たのは?」
彼女の声は低くかすれており、だがその響きは確かに彼の心を震わせた。良山は言葉を失った。ただ彼女のもとへと導かれ、気がつけばその膝元に座り込んでいた。
夜叉の皺に刻まれた顔は、想像以上に静かで、どことなく安心感すら感じさせた。それが彼の錯覚であったことを、彼は後に知ることとなる。
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「お前も恐れるか、この森を」
老女は尋ねた。
良山は小さく頷いた。恐れるべき理由は、今や彼の中で意味をなさない程に消えていたが、それでもどこか、彼自身が知覚できない何かが彼を縛っていた。
「恐怖は、時に最も強力な枷となる。だがお前は違う、その目が語る。そして、その目が私を見つめる理由を、私は知ることになるだろう」
すると、夜叉は指を絡ませながら一糸乱れぬ動きで、彼の髪を撫でた。その瞬間、身体中に何か粘りつく感覚が走り、良山は意識を失った。
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次に彼が目を覚ました時、辺り一面に広がるのは一面の真っ赤な景色だった。他のどの場所よりも異様なその風景に、良山は目を見張った。そこには、村から消えた人々が、組み敷かれて倒れているのを見た。皆、生気を失い、目も当てられぬ惨状だった。
彼は何とか逃げ出そうとしたが、その時に聞こえてきたのは、耳を引き裂くような声。振り向くと、そこには夜叉が顕れていた。その姿は、もはや人間のそれではなかった。獣のように肉を育み、人々の悲鳴と共に狂気の舞を踊っていた。
「これが私の畑だ。そしてお前は、その新たな苗となるのだ」
良山はそれが何を意味するのか理解した時には、もう手遅れだった。体中を絡めとる見えない力により、彼はその意識を永遠に失った。
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夜が明け、村には今日も新たな日常が訪れた。良山が村から姿を消し、また一人、誰もが口を閉ざすこととなる。彼のことを記憶に留める者は少ない。なぜなら、村は既に多くの記憶を、あの森に捧げてきたのだから。
そしてまた一人、流れる川の淵に佇む影があった。村の者は、恐怖を心に抱えながら、再びそれぞれの日常に戻る。誰もが、夜叉の存在を淡々と受け入れ、彼女の領域を侵すことのないようにただ祈るのだ。
森の奥深く、彼女の畑は今日も新たな命を抱えながら、静かに時を刻んでいた。それは、いずれまた誰かが、誘われることを意味しているに過ぎない。人生の営みに潜む狂気の数々、それを裁くのは恐怖なのか、それとも己の信念か——その答えを知る者は絶えず失われ続けるのだ。