山深い村に、一人の若者が住んでいた。彼の名は幸太郎。村外れの家にひっそりと暮らす彼は、自然と共に生きることが日常であった。彼の生活は、米を育て、時には山に入り狩りをすることで成り立っていた。
ある晩のこと、幸太郎は山からの帰り道で、不思議な音を耳にした。それはどことなく笛の音のようで、耳を澄ませると確かにそれは妖しい旋律を奏でている。「こんな山奥で誰が笛を?」と訝しみつつも、その音色に魅了され、幸太郎は音の方向へと足を運んだ。
音の源を辿ると、そこには信じ難い光景が広がっていた。月明かりの下、開けた草原。幸太郎の眼前には、白く長い髪を持つ美しい女がたたずんでおり、穂先が黄金に輝く鶴の羽扇を手に持ち、笛の音に合わせて優雅に舞っていた。彼女の周りには妖しく輝く狐や狸が集い、彼女の動きに合わせて跳ね回っている。
幸太郎はその光景に釘付けになった。何かがこの世界のものでないことを、本能的にいやおうなしに悟らされた。この女――この美しき人ならざる者は、妖怪であるに違いない。だが、その魅惑的な姿に、恐れや逃げる気持ちすら起こらず、ただじっと見入ってしまうのだった。
翌朝、幸太郎はふと目を覚ますと、自分の家の中にいた。昨夜の出来事は夢であったかと思いかけたが、彼の手には一輪の白い花が握られていた。その花には見覚えがあった。昨晩の月夜の光景の中、女の傍らに咲いていたものと同じではないか。
それからというもの、幸太郎の心には奇妙なもやがかかったようになり、彼の日常は何やら歪み出した。頭の片隅に常に笛の音が響き、夜になると心のどこかから女の姿が浮かび上がってくる。彼は次第に食事や農作業にも身が入らなくなり、夜になると一人で山へ向かうようになった。
ある晩のこと、幸太郎はまたも山に入った。月が薄くかかる夜のこと。その日も彼の足は自動的にあの草原へと向かい、そして彼はまたも夢寐の中にいるように、女のその舞台へと導かれた。女は彼に微笑みかけ、手招きをする。彼はそれに抗うことなく、ただ彼女の呼びかけに応じた。
近づくと、女は彼の頬にそっと触れ、その冷たさに背筋が震える。だが、次の瞬間にはその冷たさが身体中に広がり、甘美な感覚が彼を包み込んだ。「お前は、ここに留まる者だ。」女は静かに言った。その声は水面を波立たせる風のように、静かでありながら圧倒する。
翌朝、村人たちが幸太郎を探したが、行方はわからなかった。ただ彼が行方不明になった夜に、農家の畦に奇妙な白い花が一輪咲いているのを見つけたという。
それ以来、その村では月明かりの夜に奇怪な笛の音を聞くことがあると言われる。それは遠く古の山中で、人ならざる者たちが戯れる音。誰もがその音を恐れ、夜に山へ近づくことはなくなったという。幸太郎がどこに消えたのかを知る者は誰もいない。ただ誰もが彼が妖怪の手に落ちたことを静かに噂し、風の音に耳を傾けるのだ。
村人たちは言った。「月夜の山には妖が住む。人の世を超えた存在が、我々の知らぬ世界で笑い舞っているのだ。」そしてこの言い伝えは村の子供たちに語り継がれ、やがて彼ら自身が大人になった時、その妖怪の物語をまた次の世代へと語り継ぐだろう。そして笛の音が鳴り響く夜には、彼らはそっと家の戸を閉じて灯りを消したのだった。