小雨が降る日曜日の午後、僕はいつものように近くのカフェ「シェリー」でコーヒーを飲んでいた。窓の外には灰色の雲がゆっくりと流れ、どこか静寂な空気を醸し出している。店内にはいつもの常連たちがちらほらと見え、かすかに心を落ち着かせるジャズが流れている。僕にとって「シェリー」は、平穏な日常の象徴のような場所だった。
それは、ほんの些細な違和感から始まった。最初にそれを感じたのは、カウンターに置かれた砂糖入れがどこかくすんだ色に変わっていたときだ。元は鮮やかな白だったそれが、まるで古びた黄土色へと変わっている。もしかしたら、単に僕の記憶違いか、光の加減が原因かもしれない。そんな風に自分を納得させ、特に気に留めることはなかった。
次第に、その些細な違和感は日常のいくつかの場所に広がっていった。通勤途中の電車の中で、見慣れた広告がどこか古びて見えることに気づく。あるいは、職場の同僚たちの姿勢が妙に硬く、いつもより冷たく感じられる。彼らの挨拶も、どこかよそよそしく、まるで音が消えてしまいそうな儚さを伴っていた。
微細な違和感が募る中、家に帰ってもその感覚から逃れることはできなかった。リビングに飾られた写真立ての隅には、知らないうちに蜘蛛の巣が張っていた。だが、それ以外にも気になることがあった。台所のシンクから聞こえる水滴の音。そして、それが奏でる不規則なリズムは、まるで囁くように僕の心に不安を刻み込んできた。
不意に、目の前の現実が薄膜の向こう側にあるかのような、奇妙な感覚に囚われることがあった。街を歩いていると、午前と午後で街路樹の色がわずかに違っていたり、交差点の信号機の点滅がいつもより早かったりする。ほんの些細な変化だが、それらは継ぎ接ぎの夢のように、もはや無視することができないほど僕の日常に侵食してきた。
ある晩、決心して早めに寝ることにした。部屋の明かりを消し、布団に潜り込む。ぼんやりとした不安が心の片隅を占めていたが、それでも眠りの波が僕を引き込んでいく。しかし、夜中にふと目が覚め、耳を澄ますと、妙な音が聞こえてきた。それは、何かが乾いた音を立てて引っ掻いているような響きだった。部屋のどこから聞こえてくるのか分からない。恐る恐る電灯を点け、部屋を見回したが、特に変わったところは無い。
それからというもの、僕の周囲の変化はより顕著になっていった。通りを歩く人々が、皆、同じ方向を向いて早足で歩いていたり、店のシャッターが昼間から下りていたりと、ぼんやりと不安を煽る出来事が続く。「日常」は、ほんの少しずつ、しかし確実に崩れている。やがて何もかもが正常に見えなくなり、僕は誰にも声をかけられず、一人ぼっちでその変化の渦に巻き込まれていた。
そんな中、ある日曜の午後、再びカフェ「シェリー」に足を運んだ。だが、その日は一段と異様な雰囲気が漂っていた。ふと店に入ると、常連客たちの姿はなく、窓際の席にかけられた薄汚れた布が、明らかに数日前のものではない古びた日付の新聞を覆っていた。店を後にするとき、背筋を悪寒が走り抜けた。もはや「シェリー」すら、消えゆく日常の残像でしかなくなってしまったのだろうか。
恐怖が心を覆い尽くしそうだったある雨の日。ついに、あの小雨すらこれまでとは何か違うと感じるようになっていた。家の窓から外を眺め、周囲の景色に異常を見出そうとするが、その無駄な試みは胸中にさらなる悲しみを与えるだけであった。
日常の崩壊は、深く静かに、しかし確実に僕を飲み込もうとしていた。理解できない変化の中で、僕は一人きりで、それでもその日常にすがることしかできなかった。皮肉にも、その崩壊から目を背ける術を持たずに僕は日々を過ごし続けるしかない。
この悪夢から逃れられる日は訪れるのだろうか。それとも、僕自身が変わらないとする世界の一部に変わってしまうのだろうか。尋常ではない日常が、かつての慣れ親しんだ世界を覆い隠す様は、あたかも音なき叫びを上げているかのようであった。そして最後に残された僅かな光すらも、いつか闇に溶け込んで行くように思えてならなかった。