戻り婆と犠牲の老人

妖怪

雨が降りしきる晩だった。重たい雲が月明かりを隠し、村全体が闇に包まれていた。古い神社の境内に立つ木々は風に揺れ、葉擦れの音がまるで誰かの囁き声のように響いていた。人々はこういう夜には外に出ないのが賢明だと知っていた。特に、この村には古くからの不気味な伝承があった。薄暗い森の奥に住む妖怪――「戻り婆」と呼ばれる存在についてだ。

戻り婆は、かつて村に住んでいた老婆の霊で、死に対する執念深さと、無念の想いに囚われて、死後も安らかに眠ることを許されなかったと言われた。生前の彼女は、村のはずれに住み、薬草に詳しく、病人を看た経験も豊かだった。しかし、ある年の厳しい冬、彼女自身が重い病に倒れ、村人たちはもう手の施しようがないと見限った。彼女の助けを必要とせず村人たちは代わりに祈祷師を頼ったが、その祈祷もむなしく、彼女は死を迎えた。

その夜から、村には奇妙な出来事が続いた。村人たちが眠りにつくと、いつしか不快な息遣いとともに、音もなく家の中を彷徨う影が目撃されるようになった。その影が何をするわけでもないのに、目覚めた者は重病にかかるか、再び眠りから目を覚ますことがなかった。

ある晩、まだ幼い少女、佳奈の家でもその影が現れた。寒さを防ぐために固く閉められた障子の隙間から、冷たい風とはまた違った、不気味な気配が忍び込んできた。佳奈は目を覚ますと、ふと部屋の隅に佇む影を見つけた。その影は人の姿をしていたが、顔は黒い靄に覆われて見えなかった。暗闇に吸い込まれるような深い瞳だけが、静かに彼女を見つめていた。

「佳奈、眠れぬか?」と、影が柔らかに問いかけた。

声には不思議と温かみがあり、恐怖心は薄れた。佳奈は母の幻影だと思い、再び目を閉じようとした。だがその瞬間、影の姿が徐々に変化していくのを感じた。まるで、心の中で忘れかけていた記憶が蘇り、自分自身が映し出された鏡のように、そこにいた。

影は佳奈に問い続けた。「何故、生きているのか?」

その問いは不条理で、誰もが持ちえぬ答えを強要されるようだった。佳奈はその問いに対し、ただ涙を流し続けた。影もまた、静かに冷たい涙を流していた。

すると次の瞬間、影は闇の中へと溶け込み、部屋の温もりとともに消えていった。その夜、佳奈は高熱を出し、夢と現実の狭間で浮遊する日々が続いた。

村ではこの奇妙な現象が続く中、「戻り婆」の仕業であると囁かれるようになった。しかし、それを確かめるすべはない。人々は畏れ、神社の祭壇に供物を捧げ続けた。ただ一人、佳奈の祖父である老人だけが、古びた巻物を取り出すと、その謎に迫る決意を固めたのだった。

その巻物には村の歴史と、戻り婆にまつわる伝説、そして彼女を慰めるための儀式が記されていた。心を落ち着かせ、高僧に教えられた念仏を唱えれば、その魂を成仏させ、村から追い出すことができるという。ただ、その結末を迎えた者はそのまま妖怪と化し、戻ることはないだろうと警告も残されていた。

老人は孫を守るため、夜の帳が下りる頃、神社へ向かった。そしてその場で念仏を唱え始めた。戻り婆の亡霊が迫り来るのを肌で感じつつ、彼は心中で己の信ずる力を働かせた。静寂の中で、次第に戻り婆の姿が、その日に病に伏して衰弱した老婆の姿へ戻っていく。それは再び、帰ることができない身体の状態を目の当たりにした幻想だった。

老人の念仏に怨霊は轟々と叫んだが、やがてその声は哀しみの声へと変わり、穏やかな風となって村の上空へ消えた。村人たちが目を覚ますと、朝日が村を照らしていた。老人の姿は見当たらなかったが、代わりに神社の前には一人の少女、佳奈が立っていた。彼女の顔には安堵の表情が浮かび、健康を取り戻した証に、頬には紅色が差していた。

それからというもの、村は再び平穏を取り戻した。人々は老人の犠牲を忘れることなく、今もなお毎年、彼を称える祭りを催している。どれほどの時が流れようとも、戻り婆が再び現れることはなかった。それでも、村の神社の境内には、夜な夜な冷たい風が吹き、老人と戻り婆が旅立った日を思い出させる。村人たちは耳を澄ませ、もしや彼らがそこで語り合っているのではないかと、静かに心の中で思い続けているのだった。

タイトルとURLをコピーしました