薄曇りの夜空の下、一軒の古びた洋館が静かに佇んでいた。この場所は、町の人々から長らく忘れ去られていたが、最近、その周囲で奇妙な現象が立て続けに起こり始めた。ある者は、夜になると館から不可解な光が漏れ出すのを見たと言い、またある者は、館の近くを通る際、何かが囁く声を聴いたと噂する。しかし、誰もその真相を確かめに行こうとはしなかった。
洋館の古ぼけたドアが、かつての持ち主によって鍵をかけられたままの姿で立ちはだかっている。そのドアの向こうには、長い年月を経て、埃と静寂が支配する世界が広がっていた。廊下に敷かれたカーペットは、すっかり色褪せていて、床板はあちらこちらで軋んだ。壁に掛けられた絵画は、過去の栄光を物語るものでありながら、どこか不気味な印象を与えていた。
ある夜のこと、若い男性が洋館を訪れた。彼の名前は秋山慎吾、学者であり都市伝説の研究をしている人物であった。以前から、この洋館の存在について興味を抱いていた慎吾は、ついにその謎を解明するために足を踏み入れる決意をしたのだ。
玄関ホールに入った瞬間、慎吾は妙な感覚に襲われた。それは冷たい霧のようなもので、肌を触れるでもないが、明らかに何かがそこに存在している気配を感じさせた。彼は目を凝らし、注意深く周囲を観察しながら、館の奥へと足を踏み入れた。
時間が経つにつれ、館内の様々な部屋を覗き見る慎吾の中で、何かが少しずつ狂い始めるのを彼は感じていた。空間自体が彼を押し潰そうとしているような、あるいは、館そのものが生きているような感覚が彼を捕らえ始めたのだ。
その時だった。慎吾は不意に、一枚の古びた扉を見つけたのだった。他の扉とは異なり、そこには不思議な文様が刻まれており、彼を誘うように揺らめいていた。扉を開けると、そこには広大な書斎が広がっていた。無数の古書が棚にびっしりと詰め込まれており、その中には、慎吾がこれまでに見たこともないような奇怪な象形文字で書かれた本も含まれていた。
彼は、館の過去にまつわる秘密がこの部屋に隠されていると直感した。そしてその推測を確かめるべく、彼は最も古びた書物を取り出し、その内容を読み始めた。
読むほどに、慎吾は言い知れない不安と恐怖を感じた。その書物には、かつてこの場所に住んでいた一家の悲劇が詳細に描かれていたのだ。家族全員は、ある日突然失踪し、二度と姿を現さなかったという。しかし、その後も、この館にまつわる噂は絶えず、彼らの魂は今もなおこの館に囚われているのではないかと語られていた。
慎吾がページをめくる手を止めた瞬間、書斎の窓から一陣の風が吹き込み、部屋中の書物が低いうなり声を上げんばかりに揺れ動いた。その風景は、まるで書物たちが彼への警告を送っているかのようであった。
慎吾はその場を立ち去ろうと立ち上がったが、その時、背後から何かに触れられた感触があった。振り返ると誰もいない。彼は心拍数が上がるのを感じながらも、平常心を保とうとするが、その場から動けなくなってしまった。恐怖が彼を逃がさないよう、しっかりとその場に縛りつけていた。
そんな時、彼の頭に一つの言葉が浮かんできた。それは「助けて」だった。どこからともなく囁かれたそれは、彼の耳元だけでなく、彼の心そのものに直接響いてきた。
激しい動悸とともに、慎吾は意を決して書斎を飛び出し、再び廊下を駆け抜けた。しかし館内の様子はすでに変わり果てていた。壁には得体の知れない文字が浮かび上がり、家具は次第に影のようなものに浸食されていた。そして、彼の周りには、かすかに人影のようなものが見え隠れしていた。
ついに玄関の扉にたどり着いた彼は、その扉が重く閉ざされているのを感じた。開け放たれた窓からは狂ったように風が吹き込んできて、彼を恐怖のどん底へと追いやった。その狂風の中で、慎吾はある瞬間、自分が今まさに何者かと向かい合っていることを確信した。その瞬間、彼の周囲は真っ暗になり、彼は地面へと倒れ込んでしまった。
次に目を覚ますと、慎吾は自分が町の中心にある公園のベンチに座っているのを発見した。昨夜の出来事は夢だったのか、現実だったのか、それすらも定かではなかった。しかし、彼の手には、一冊の古書が握られていた。それは彼が洋館で見つけたものであった。
不思議と胸の中が冷たくなり、慎吾はその古書をどうすべきかを考えた。彼はその本を開き、もう一度読もうとしたが、文字はすべて消えており、ただの空白がそこに広がっていた。そしてその時、遠くであの囁き声がもう一度聞こえた。
「助けて」
慎吾はその声が何を訴えているのか、どうにも理解できなかったが、一つだけ確信していることがあった。それは、自分が決して再びあの洋館に近づいてはいけないということだった。
彼は古書を握りしめ、その場を立ち去った。それ以来、彼はあの洋館のことを人に語ることはなかった。ただ一人、夜空を見上げるときにだけ、どこかから何かが見ているような感覚に囚われることだけが、彼にとっての唯一の真実として残された。
元の町並みは変わらなかったが、慎吾の中で何かが変わってしまったことは確かだった。そしてそれは、再び訪れることは決してない恐怖の記憶として、深く、彼の心に刻まれていた。情景とともに、慎吾の心には常にあの声が響くのだ。「助けて」。
慎吾にとって、この声はどこか絶え間なく続く呪いのようであり、彼の人生という物語の新たな一章に入り込んでいた、忘れることのできない過去の欠片であった。