忘れ去られた村の祠と幽霊のささやき

幽霊

その村は、山々に囲まれた僻地に位置しており、訪れる者はめったにいなかった。古びた木造の家々は、年月とともにその数を減らし、残された少数の住民たちは日々を静かに過ごしていた。村を取り巻く深い森は、まるで時間を閉じ込めたかのように変わらずそこに在り、人々はその深淵に足を踏み入れることを恐れていた。

──そこには、誰一人戻ってきた者がいないからだ。

ある秋の晩、空が暗くなる頃、青年・直人はその森の中へ足を踏み入れた。親しい友人が何日も帰らず、心配の余り捜索を試みたのである。友人が向かったとされる古い祠のことを耳にしていた直人は、薄暗い森の中でその場所を探し求めた。

森の中は、冷たく湿った空気に包まれ、木々の間から漏れるわずかな月明かりが、まるで道標のように彼を誘っていた。森の静寂は、時折風に揺れる木々のざわめきと、小動物のか細い鳴き声によって破られた。しかし、彼の心には不安が渦巻き、知らず知らずのうちに早足となっていく。

どれほど歩いただろうか。やがて直人は、木々のあいだにぽっかりと口を開けた空間を見つけた。そこには、想像していたよりも古くなった祠が佇んでいた。石段は苔むし、木製の扉は半ば崩れ落ちている。祠を覆い隠すように絡みつく蔦は、長い年月、この場が人知れず存在してきたことを物語っていた。

直人はその場に足を止め、しばらくの間、ただ立ち尽くしていた。不安と恐怖が彼を貫いたが、友人を思う気持ちがそれを押しのけた。「ここで引き返すわけにはいかない」と、自分に言い聞かせる。

祠の傍らには、誰かが置き忘れたかのように古ぼけた灯籠が倒れていた。直人はそれを拾い上げ、懐中電灯の光を灯して中を覗き込む。内部は狭く、あたりに漂う湿った土と古い木の香りが充満していた。何もないはずのその空間で、彼はふと背後に何かの気配を感じる。

「……誰かいるのか?」

振り返ってみたものの、そこには誰もいない。ただ、微かにひび割れた木の床が軋む音が耳に残るのみである。直人は、再び祠の中に目を戻す。床には何かを彫り込んだ跡があり、彼の興味を引いた。それは、まるで子供の手で描かれたかのような、粗雑な文字の羅列だった。

「…たすけ…て…」

言葉の意味が理解できた瞬間、直人の体は凍りついた。胸の中で何か冷たいものが広がっていく。その時、再び背後から音がした。今度は明らかに人の気配を感じる。

恐る恐る振り返ると、そこには見慣れぬ女が立っていた。白いワンピースを纏い、肩までの黒髪は風もないのに揺れている。表情は暗く、どこか影のような曖昧さがあったが、彼に向けた視線は確かだった。

「君は…誰なんだ?」

声を出すのが精一杯だった。女は応えることなく、ただじっと彼を見つめ返すのみ。だが、次の瞬間、風もないはずの森にざわめきが起こり、彼らの周囲が一瞬だけ揺らめいた。気づけば女の姿は消え去っていた。

震える足でその場を立ち去ろうとしたが、もう一度祠の中の文字が頭をよぎる。助けを求める声。それは、かつてこの村で起こった事件のことだったのかもしれない。あるいは、もっと別の何か…。

「何をしているんだ、こんなところで?」

突然の声に驚いて振り向くと、そこには村の古老が立っていた。彼の姿は驚くほど静かで、まるでこの森と一体化しているかのようだった。古老は年齢に見合わぬ力強さで直人を見据え、彼の心に何かを投げかけた。

「…あの女を見たのか?」

直人は黙って頷くしかなかった。古老の目に一瞬、痛みの色が浮かぶ。

「彼女は、この村の過去が生み出した影だよ。昔、この村で多くの子供たちが姿を消したことがあった。彼女もその一人だ。」

直人は息を呑んだ。古老の語る声が、時折木々の囁きと重なって聞こえる。消えた子供たち、そしてその未練が形をなす幽霊。それが、祠に刻まれた文字の意味するところであったのか。

「彼女は、未だに何かを探しているのかもしれない。何も出来なかった我々への恨みか、あるいは自分がここから出られないことへの嘆きか…。」

古老は言葉を切り、直人の顔を見つめた。彼の中にある善意と好奇心、それがいかに危ういものであるかを悟ったようだった。

「何もできないまま、ただ見守ることしかできない。それが私たちの運命なのかもしれんな。」

夜の静けさが、再びあたりを包む。直人は、古老の言葉を胸に刻みながら、来た道を戻りはじめた。友人は見つからなかったが、この場を離れることが、彼に許された唯一の救いだった。背後で何かが自分を見つめ続けているような感覚を振り払いつつ、村へと続く小道を急いだ。

祠は再び静寂の中に溶け込み、森の奥深くにその姿を隠した。誰もいないはずのその場所に、今も消えることのない声が響いている──助けを求め続ける、懐かしさと切なさの交錯する声が。古来からの未練と怨念は、今もなお、この地に蔓延り続けているのだろう。

その夜、直人は村外れの家でひとり、結局戻らなかった友人のことを思いながら眠れぬ時を過ごした。瞼の裏に浮かぶのは、あの女の瞳。それは、呼び覚まされた過去の記憶であり、未だに解決されぬ彼女の物語の一部なのだと、直人は静かに理解し始めていた。彼女が見つめ続ける先に、何かを伝えたいという思いがあったことを。そして、それが遂に解かれることなく、朽ち沢となった村の静寂に帰す運命であることを。

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