僕は、数年前に経験した出来事について一度も人に話したことがない。話せば誰も信じてくれないと思ったし、誰かに話すことであの恐怖が再び蘇るのが怖かったからだ。だけど、勇気を振り絞って今ここで一度、すべてを話してみようと思う。
あの事件は、僕がまだ大学生だったころのこと。友人たちと夏休みを利用して山奥の別荘を借りて過ごすことになった。普段は賑やかなグループだったが、あのときはなぜか妙に静かで、お互いの顔色をうかがいながら別荘に向かったことを覚えている。別荘に着くと、古びた木造の建物に錆びついた扉、くぐもった外灯の明かりが不気味さを漂わせていた。それでも、大学生活の息抜きになることを期待して、僕たちは恐る恐る中へ入った。
別荘の中は薄暗く、家具はホコリにまみれ、まるで時が止まっているかのようだった。それでも僕たちは何とか明るい雰囲気を作ろうと、夜には持参した酒を飲んで騒いだ。時が経つにつれ、徐々に緊張はほどけ、普段のような騒がしさが戻ってきた。その夜は、飲み疲れた僕たちはいつも通り寝床に入った。
しかし、夜中にひとりでに目が覚めた。部屋の外からはかすかな物音が聞こえてきて、何かが床を引きずるような音だった。最初は仲間の誰かがトイレに行ったのかと思ったが、音はなかなかやまなかった。僕は好奇心に駆られてベッドを出て、音のする方へと足を向けた。
廊下に出ると、薄暗い電球の光の下で、何かが動いているのを発見した。影で正確な形は分からなかったが、細長いシルエットが這っているように見えた。何故かその時は怖さよりも興味が勝り、試しに声をかけようとした。しかし、口を開く前に何者かの手が背後から僕の口を抑え、引きずり込まれるように別の部屋に押し込まれた。
その部屋には、同じく目が覚めた仲間たちが怯えた様子で集まっていた。すべての顔が真っ青で、言葉を失っていた。僕たちは何も言わずにしばらくその場に立ち尽くしたが、ついに一人が口を開いた。
「あれは、人間じゃない…」
友人の言葉に背筋が凍りついた。自分たちは異常な状況に立たされていることがわかり、それが血の気を引かせた。誰もがかすかな動きや物音に神経を尖らせ、わずかな音にも過敏になっていた。
夜が明けるまでその部屋で息をひそめて過ごし、やがて朝の光が差し込むと、恐る恐る外の様子を確認しに行くことにした。廊下には、血のように赤黒い液体がまだらに広がっていた。その跡を追っていくと、行き着いた先は別の部屋の扉の前だった。中からは微かな腐臭が漂い、僕たちの誰もが立ち尽くしてしまった。
ついに、最も勇気がある友人がドアノブに手を掛け、恐る恐るドアを開け放った。そこには、散り散りになった肉片と見るも無惨な状況が広がっていた。その光景を見て、僕たちは何も言えずにその場で嘔吐する者もいた。誰の仕業かはわからなかったが、人間の狂気によるものであることは間違いなかった。
一目でここは危険だと察し、僕たちは呆然としながらも退散の準備を始めた。別荘を去るとき、僕たちの背後では再びあの不気味な物音が響いていた。あの夜何が起きたのか、いまだにすべてを理解できたわけではない。
別荘を後にし、都会の喧騒に戻ったとき、僕たちの誰もあの出来事については二度と口にしなかった。仲間うちでの暗黙の了解で、それは暗い過去として心の奥底へ沈められた。しかし、僕はときどき、夜になるとあの不気味な音が耳元でささやくように聞こえてくることがある。そして、そのたびに何かが僕たちを未だに見ているような、そんな錯覚に陥るのだ。
この体験を語ることで、あの時の恐怖が少しでも和らぐならと思ったが、逆に思い出すたびに恐怖が新たに蘇るばかりだ。この体験は、僕にとって終わることのない悪夢となったのかもしれない。しかし、一つだけ言えることがある。人間の狂気の闇はどこに行ってもついてくる、ということだ。そして、それがいつだって僕たちを待っている。